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後藤 昌彦氏
株式会社 丸鉦
代表取締役社長
(ごとう・まさひこ)/愛知県内の大学時代に中国・北京へ留学。卒業後、アルミホイールメーカーのトップ営業、大手専門商社での10年間の勤務を経て、だし一筋70余年の歴史を持つ家業の株式会社丸鉦へ入社。2020年、コロナ禍の最中に先代である父が突然倒れたことを機に、38歳で3代目社長に就任。営業時代から培った行動力で新規開拓を成し遂げ、伝統を守りながら新たな柱を確立する攻めの経営を実践している。
「だし一筋」で戦後から70有余年、名古屋のうどん文化を裏から支え続けてきた株式会社丸鉦(まるしょう)。現在、3代目社長を務める後藤さんは、決して「敷かれたレール」を歩んできたわけではありません。むしろ、強い反発と、「親父の後ろ盾なんかなくてもやれる」という意地。後藤社長が歩んできた葛藤、決断、そして今もなお続くリアルな挑戦をお届けします。
「お前はここを継ぐんだから」——敷かれたレールへの猛烈な反発と、自分を証明するための10年
——後藤さんはもともと、幼い頃から「3代目」として継ぐことを意識されていたんですか?
後藤:高校の時、ソフトボールを一生懸命やっていまして、インターハイに出たんです。そうしたら実業団から「うちで働いて、午後からソフトボールをやらないか」と声をかけていただいて。親父に相談したら、「お前はここを継ぐんだから、大学へ行け」とあっさり阻まれました。あの時は本当に悔しかったですね。
——ご自身の意志とは違う「宿命」のようなものに、早くから直面されていたんですね。
後藤:そうなんです。だから大学も地元(名古屋の大学)へ行きましたけど、「親の七光り」とか「親父の後ろ盾があるからだ」って周りから思われるのが、どうしても嫌だったんです。21歳の時、親父から「将来絶対に必要になるから、北京へ1年留学してこい」と言われた時もそうでした。うちの会社は1999年に上海に工場を作っていて、親父自身は月の半分をあっちで過ごしていたんですけど、中国語を覚える気がなかったみたいで(笑)。
その時も、親父のいる上海ではなくて、全くツテのない北京を選びました。「親父の力でやれた」って言われるのがとにかく癪だった。言葉も「ニーハオ」と数字しか分からない状態でしたけど、1年間死に物狂いで勉強しました。
——就職活動でも、あえて自分の力だけで勝負できる道を選ばれたとか。
後藤:大学を卒業したら、普通は3年間だけ仕入れ先の会社に入って、それから家業に戻るというルートが、うちの親戚一同の「既定路線」だったんです。でも、そんなの何にも人生経験にならないし、他人に使われる厳しさも分からないじゃないですか。だから自分で就職活動をして、アルミホイールのメーカーの営業部門に入りました。そこが1年目でスタッドレスタイヤ用のホイールが全然売れなくて会社の経営が傾き始めました。「辞めたい」と言ったら、上司に「トップセールスになったら辞めさせてやる」と言われたんです。
——そこから本当にトップになった。
後藤:土日休みと聞いて入ったのに、実際はカー用品販売店での販売応援ばかりで、3ヶ月休みなく売り込みを続けました。それで本当に売上ナンバーワンになって、1年と少しで辞めました(笑)。その後、自分の実力を試したくて東京の神田にある専門商社に転職したんです。そこは優秀な大学を出た優秀な人ばかりの会社でした。実家からは「早く戻ってこい」と毎年言われ続けましたけど、「自分の実力で管理職になって、部下を持って、それを1年まわしてからでなければ絶対に戻らない」と決めて、結局10年間働きました。自分で決めたルールだけは、どうしても曲げたくなかったんです。
古参社員の無言の視線。それでも大手居酒屋チェーンなどを掴み取った営業力
——10年間の修行を終えて、満を持して丸鉦に戻られた時、社内の雰囲気はどうでしたか?
後藤:それはもう、古参の社員たちからの「本当に仕事できるんか?」という無言の視線は凄まじかったですよ。何を言っても「商社の仕事と、うちの仕事は違う」と言われてしまう。僕自身、前職では化学品を扱っていたので、賞味期限のある「食品」のルールや衛生管理は一からのスタートでした。最初の1ヶ月は、仕入れ先のカツオの産地(焼津など)に泊まり込んで、魚の頭を落として、茹でて、骨を抜いて、箱詰めする作業をひたすらやらせてもらいました。
——そこで、ご自身の力で「新しい仕事」を獲ってこようと。
後藤:うちの会社は、最大手である大手和食飲食チェーン店さんへの依存度が非常に高くて、売上の半分以上を占めていました。個人向けのうどん屋さんも、後継者不足や大手製麺会社チェーン店さんの台頭でどんどん減っている。私たちの最大手のお客さんに何かあったら会社が傾くという恐怖が常にあったんです。だから、自分が戻ったからには、新しい柱を絶対に作らなきゃいけないと思いました。それで、商社時代の薄い繋がりを必死に手繰り寄せて、開拓したのが大手居酒屋チェーン店さんです。
——あの全国規模のチェーン店を、後藤さんが営業で開拓されたんですか?
後藤:はい。その企業は接待も禁止、手土産も一切通用しない非常にドライで有名な会社です。普通に提案に行っても話なんて聞いてもらえない。でも、うちのお客さんだった担当者さんが退職されて、その居酒屋チェーン店の部長職に転職されていたんです。そこを何とか頼み込んで、「うちの削り節を使ってくれませんか」と飛び込みに近い形で交渉を重ねました。そのお客さんは今、全国に600店舗以上あって、「花かつお」「海苔」「からし」の3品だけで、うちにとって売上第2位の太い柱に成長してくれました。
——さらに最近では、名古屋で話題の「製麺所」さんとの取引も大きな成果だと伺いました。
後藤:その製麺所さんが出店された時、コロナ禍でのテレワーク導入などもあって、最初はなかなか上手くいかなくて資金繰りに苦しんでいた時期があったんです。でも、彼らが目指す「本当に美味しくて、手軽に食べられるきしめん」には、絶対に良い出汁が必要でした。そこで、製麺所の派生店舗の立ち上げも含めてうちの出汁を提案し、今では月に約400万円規模の取引をいただけるようになりました。個人店一店舗ではあり得ないような規模の取引です。こういう「新しい矢」を自分で放って、形にしていったことで、ようやく社内でも自分の居場所が作れたような気がします。
「帝王学」のない突然の代替わり。身内の問題、そして創業74年目の「決断」
——そうして営業としての成果を積み上げていく中で、突然の転機が訪れたんですよね。
後藤:コロナ第二波の最中だった2020年の11月、当時社長だった親父が脳梗塞で倒れました。頭を強く打ってしまって、そこから4年間、意識がない状態が続いたんです。一応、親父の頭の中では「翌年の9月に代替わりをして、1年間で帝王学を教える」という計画があったみたいなんですけど、何一つ引き継ぎがされないまま、社長がいなくなってしまいました。
——まだ後藤さんは「課長」というポジションだったんですよね。
後藤:そうです。そこから1年間は社長不在のまま会社を回しました。でも、株主総会の兼ね合いもあって、これ以上社長不在はまずいということで、課長から一気に社長へ就任することになりました。38歳の時です。そこからは本当に、表舞台の華やかさとは程遠いリアルな問題ばかりでした。「身内が経営に深く関わっている会社で、僕が社長になるとなった時、身内の役員とどう向き合うべきか悩みました。株の買い取り交渉をしたり、実務でも元上司だった年上のおじさんとの人間関係で多少ぎくしゃくしたり。本当に綺麗事じゃ片付かない泥臭いことばかりを、一つずつ片付けていきました」
——まさに、家族経営ならではの生々しい試練ですね。
後藤:本当にそうです。でも、会社を守るためには決断しなきゃいけない。そして今、もう一つの大きな変革として、来春にいよいよ工場の移転を決断しました。
——この、歴史を感じる木造の自社工場から移転されるんですか?
後藤:ええ。この工場は戦後、昭和27年(1952年)に祖父がここを構えてから、だんだんと継ぎ足して大きくしてきた工場です。天井の梁も当時のままの木造で、すごく愛着はあります。でも、やはり耐震面での不安や、今後の効率化を見据えると、今のままでは戦えない。来年の2月にここを壊して、もともと撮影スタジオだった天井の高い物件を居抜きで買い取って、そこへ移転します。74年間守り続けたこの場所を離れるのは勇気がいりますが、これこそが、僕がこの会社で握るべき「変革のバトン」なんだと思っています。
完璧な大人なんていない。もがきながら、自分の場所を創っていく
——後藤さんのお話を伺っていると、エリート街道ではなく、常にもがきながら、ご自身の力で壁を突破してこられた実感が伝わってきます。
後藤:僕だって、最初から「この仕事がやりたい!」と思って入ったわけじゃないですからね。ソフトボールを諦めさせられた時は親父を恨みましたし、実家に戻るのだって「いつかはやらなきゃいけない宿命」として、ずっとモヤモヤしていました。でも、「どうせやらなきゃいけないなら、誰も文句を言えない実力をつけてから戻ってやろう」と決めて、前職でがむしゃらにやりました。その時の営業経験が、結果的に今の丸鉦を支えるお客さんとの取引を呼び込んで、会社を救うことになった。今の会社や仕事に「このままでいいのかな」と悩んでいる20代や30代の人たちに言えることがあるとすれば、置かれた環境が自分の理想と違っていても、そこで自ら動いて、一つでも「自分にしかできない仕事」を作れたら、景色は絶対に変わるということです。
完璧な大人なんていません。僕も今だって、工場の移転費用や、これからの会社の舵取りに毎日頭を抱えながら、もがいている最中ですから。

戦後から名古屋の食文化を陰で支え続けてきた、だし一筋の老舗・丸鉦。その歴史が刻まれた味わい深い木造工場で伺ったお話は、伝統を守ることの重みと、それ以上に「変革し続けること」の覚悟に満ちていました。歴史への深い敬意を持ちながらも、来春の工場移転をはじめとする「攻めの経営」へ舵を切る姿には、3代目としての確固たる覚悟が滲んでいます。
伝統の味はそのままに、時代に合わせて姿を変えながら次の10年、100年へと紡がれていく丸鉦の未来が、今から楽しみでなりません。
この記事を書いた人
宗宮彰良
ツムログ副編集長。2012年に新卒でアクセスに入社し中小企業の社長のお悩みを500社以上サポート。採用の枠を超えたお悩み解決をモットーに月間50件の商談をさせていただいています。想いが強ければ採用はうまくいく。一緒に想いをかなえましょう。
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