華地山 裕章氏
名和工業株式会社
代表取締役社長
(かじやま ひろあき)/愛知県出身。地元の中高・大学を卒業後、メーカーで現場や営業を経験。27歳の時、父親が創業した名和工業株式会社へ入社。従業員は両親と営業1名だけであったため、現場と営業どちらも経験。リーマンショックなどの危機を乗り越え、現在は「自分がいなくても回る会社」を目指し、社内の仕組み化やマニュアル化に注力。週末はゴルフやツーリングを楽しむアクティブな一面も持つ。
愛知県には、日本のモノづくりを根底から支える無数の町工場が存在している。しかし、その多くが後継者不足や下請けとしての厳しい価格競争に晒され、生き残りをかけた岐路に立たされているのが現実だ。
名和工業株式会社の代表取締役社長である華地山氏もまた、予期せぬ形で家業を継ぎ、長年にわたる奮闘の中で会社を立て直してきた一人である。幼い頃は工場のプレスの音や油の匂いが好きになれず、会社を継ぐつもりは全くなかったという彼が、なぜ27歳で家業に入り、現在に至るまで会社を守り抜いてきたのか。
営業ゼロのどん底から這い上がり、「自分がいなくても回る会社」を目指して組織作りに奔走する華地山社長に、これまでのリアルな歩みと、働くことへの等身大の思いを伺った。
「未来がない会社だ」営業不在の町工場からのリスタート
1階が工場で、2階が事務所と住宅。学校から帰ればプレスの音や金属を削る音が響く。お風呂に入るときは、真っ暗な中を工場の隅にあるお風呂まで歩いていかなければならない。そんな環境で育った華地山社長にとって、家業は決して魅力的なものではなかったという。
地元の中学、高校、大学を卒業し、メーカーの現場や営業職として自分の道を歩み始めていた27歳の時、父親である先代社長が病に倒れる。それを機に名和工業へ入社することになったが、待ち受けていた現実は想像以上に厳しいものだった。
――ご自身は別の道を歩まれていた中で、お父様である先代社長が病に倒れ、家業に入ることになりました。当時の会社の状況はいかがでしたか?
華地山社長(以下、華地山):最初の数年間は本当に苦労しかしていません。父が倒れたことで従業員の方には退職してもらい、僕が入った時の会社には古くから勤める営業担当の番頭さんと母だけだったので、2人が会社を回してくれていました。また、営業がいるとはいえ、受注したものを協力会社に制作してもらい納品する商社機能だけで成り立っている感じの会社でした。1年目くらいまではなんとか回っていたんですが、2年目くらいから現状のお客さんの状況が把握できるようになってくると、新規の案件もないし、『あ、なんか未来がない会社だな』って気がついてしまったんですよね。売り上げもどんどん減っていましたし、自分が入社した10年後に親父が亡くなってしまい、そこからは本当に死ぬ思いでやってきました。
――お父様不在の中、現場のことも分からない状態からのスタートだったと思いますが、どのように切り抜けたのでしょうか。
華地山:父は入院後1ヶ月くらいで退院し復帰しましたが、実務はせず肩書だけで、リーマンショックまで実質専務の私が社長職も営業もやるようになりました。その10年後、父が亡くなり同時期にリーマンショックにも見舞われ、本当に苦しい時期が続きました。少し前に別会社との共同経営をスタートさせたタイミングでもあり、仕事の獲得はしやすくなっていましたが、機材へ大きな投資をしたタイミングでもありました。従業員さんもその頃には増えていましたし、頑張らなくてはいけない時期で…。その後現場スタッフが退職することになり、私も代わりに現場をやらざるを得なくなりました。機械加工をパートさんと一緒にこなしながら次の加工の人材を募集して1年後にはなんとか権限を委譲 できました。 初めて現場に入った頃は、受注が増えた時期でもあったので結果時間が足りなくなり、プレスが間に合わなかった分は自分がやるしかないので、土日に一人で工場に出て機械を動かしていましたよ。何の楽しさもないですよ(笑)。でも、そうやってお客さんの納期を守りながら、何とか信頼を繋ぎ止めてきたんです。
ただ、それだけでは会社は存続できない。だから同時に、同世代の社長さんたちのやり方を見ながら、『こういう人付き合いをしなければいけないんだな』とか、『こういう仕事の取り方があるんだな』というのを必死に真似て、自分の営業スタイルを作っていったんです。
自動車産業からの撤退決断
――会社の生き残りを懸けて、とても大きな決断をされたと伺いました。
華地山:はい、共同経営から5年が経過したころ、思い切って自動車分野からの撤退を決断しました。自動車関連のお仕事は、コストやタイトな納期、そして非常に高い品質水準が求められます。なんとか要望に応えようと不具合対策に追われるうちに、気がつけば本来のモノづくりよりも、検査や修正に割く時間が多くなってしまっていたんです。
昔は『お客さんのために』と思って喜んで金型を作っていたんですが、作った金型を持っていくたびに品質基準が上がっていって、どんなに一生懸命作っても納得してもらえないことばかり。片道1時間も2時間もかけて持ち帰って、また直して持っていって…という繰り返しで、工数は増えるのに受注額は上がらない。その矛盾に対するモヤモヤがどんどん大きくなっていったんです。そして『受注額と品質が反比例していくこの構造から脱却しなければ、会社の利益を上げていけない!』という考えから、自動車業界からの脱却を決断しました。売り上げの大半を占めていた業界との取引きをやめてしまうので会社にとってはかなりインパクトのある決断でしたが、経営の勉強会で学びを深める中で、それぐらいやらなきゃダメだと思ったんです。
――自動車産業から身を引いた後、どのように業績を伸ばしたのでしょうか?
華地山:自動車産業から身を引く代わりにターゲットを絞ったのが、小ロット多品種の部品を扱うメーカーでした。自社の設備にマッチしていたことや、競合も少ないことから、この戦略に切り替えました。 ある業界の企業に絞って営業活動を重ね、少しずつ信頼を重ね仕事をもらえるようになって。僕が入った時は月に数万単位だった取引が+1,000万円以上の主力取引にまで成長しました。
35歳からの学び。ワンマンから「仕組みで回る組織」へ
――がむしゃらに会社を引っ張ってこられましたが、35歳の時に転機があったそうですね。
華地山:それまでは営業から現場、検査まで、何でもオールマイティに自分でやっていたんです。でも、これだと僕が倒れたら会社が終わっちゃうなと考えるようになりました。またこの頃は、スタッフもいて仕事もあるのに思うように業績を上げることができないというジレンマがあり、経営の勉強会に参加して、ただ人を集めるだけじゃなくて、どうやってモチベーションを上げるのか、どう仕組み化するのかという戦略を学びました。
――具体的にどのような仕組みを取り入れたのでしょうか。
華地山:会社に行動目標を取り入れて、毎月報告する仕組みを作ったんです。町工場でもそういうことをしっかりやれば、業績って良くなるんですよね。それまでは黒字になったり赤字になったりを繰り返していましたが、ここ数年はようやくずっと黒字経営を続けられるようになりました。
――組織化する中で、社員の方々とのコミュニケーションで苦労されたことはありましたか?
華地山:人を育て、組織として機能させることの難しさと向き合う中で、社員とのコミュニケーションの重要性にも改めて気づかされました。社員が不満ばかりを言うようになってしまった時は、やっぱりダメなんですよね。他の協力的な社員にまで影響が出てしまうので、そこは毅然と対応せざるを得ません。普段はあんまり怒らない方だと思うんですが、感情的になってしまうくらい悩んだ時期もありました。
今はそれぞれのメンバーの状態を見ながら声をかけたり、お互いにサポートし合える風土を大事にしています。ですので、忙しい時期や大変な時期は部署を飛び越えて相談したり助け合えていますね。先日も3年ぶりくらいに社員みんなで歓迎会の飲み会をやりました。忘年会や有志で釣りに行ったり定期的に行っているイベントもあります。そういう和やかな雰囲気は大事にしていきたいと思っています。
「自分がいなくても回る会社」を目指して、次なるフェーズへ
――現在見据えている「次なるフェーズ」とは何でしょうか?
華地山:創業から60年以上が経ち、ようやく会社として安定した軌道に乗ってきた今、見据えているのは「自分がいなくても自走できる組織」の完成です。今後の5年、10年を考えた時に、一番大事なのは事業承継です。スタッフの生活のためにも事業をつなぎ、会社として成長していきたいと思っています。
――だからこそ、「自分がいなくても自走できる組織」を目指されているのですね。
華地山:その通りです。 言われたことしかやらない、自分たちで考えて判断できない組織だと、何かあった時に対応できません。今は新人育成のマニュアル化や部署転換の手順など、やれることは全部マニュアルとして残す活動をしています。僕に万が一のことがあっても、一冊のファイルを見れば『こうやってやるんだよ』と分かるように下準備をしている最中なんです。
――華地山社長は、ずっと忙しくされてきたと思いますが、リフレッシュの方法などをお伺いしてもよろしいですか?
華地山:趣味はゴルフやドライブ、釣りです。他にも興味があることはたくさんあるんですが、同級生とそれぞれ好きなバイクや車を運転して、目的地の遠征先でおいしいご飯を食べることが、今は一番のリフレッシュになっているかもしれません。

決して華やかな成功ストーリーではない。困難な条件の中、休日返上で稼働スケジュールを調整し、悩みながら社員と向き合ってきた泥臭い歩みの中にこそ、この会社の確かな体温が存在している。「このままでいいのかな」と立ち止まりそうになった時、目の前にある泥臭い現実から逃げずに自分の手で道を作ってきた大人の存在は、働くことの本来の意味を静かに、けれど力強く教えてくれるはずだ。
お話を伺いながら、私自身も「働くことの責任と手触り」について深く考えさせられる時間となりました。お父様が病で倒れ27歳で家業に就くことになり、「未来がない」と痛感するような絶望的な状況からの歩みは、決してスマートで綺麗なだけのサクセスストーリーではありません。しかし、理不尽な要求に耐えながら泥にまみれてきた日々があったからこそ、今の名和工業にある「和やかに働ける風土」や「社員の自立を促す仕組み」が、上辺だけではない本物の温かさを持って息づいているのだと強く感じました。
インタビューの中で特に印象に残ったのは、次世代に無理な重荷を背負わせたくないという優しさと、だからこそ「自分がいなくても回る強い組織」を必ず作り上げるんだという経営者としての覚悟でした。
毎日同じように続く仕事の中で、「本当に今のままでいいのかな」「自分が働く意味ってなんだっけ」とふと立ち止まってしまう夜は、きっと誰にでもあると思います。そんな時、華地山社長のように目の前にある泥臭い現実から決して逃げずに、自分なりの正解を一つずつ手探りで見つけてきた大人の姿は、私たちが再び前を向いて歩き出すための確かな道標になってくれるのではないでしょうか。これからもツムログ愛知では、この愛知の地で確かな体温を持って働く人たちの、綺麗事だけではないリアルな声をお届けしていきたいと思います。
この記事を書いた人
飯沼京子
2015年入社。丁寧なヒアリングとフォローをモットーに採用課題の解決に取り組んでいます。企業と求職者の架け橋になれるよう、魅力の発掘を目指し、日々お客様に寄り添い求人広告を作っています。
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