「何に繋がるか分からない仕事」のすべてが、いつか自分の武器になる。失敗を恐れず、小さくても一歩を踏み出す勇気を
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アメリカ留学を経て大手食品専門商社の香港支社の営業職から、30歳を機に「畑違い」の家業へ戻り、どうやって会社の危機を救うことになったのか。「人生の点と点が繋がる瞬間」や「失敗を恐れない圧倒的な器の広さ」について、等身大の言葉で語っていただきました。
全く興味のなかった家業と、がむしゃらに駆け抜けた香港の夜
――まずは御社の歴史や創業当時のことから伺いたいのですが、もともとはお父様が三兄弟で始められた会社だそうですね。
押谷 そうそう、1965年の創業だから、もう60年になるね。うちの父親が中学を卒業して、滋賀県から名古屋に出てきてね。当時、名古屋にあった段ボール機械の老舗メーカーで丁稚奉公をしていたのが始まりなんです。そこで技術を身につけて、独立して自分でやろうっていうことで、弟2人を呼び寄せて三兄弟で始めたと聞いています。
――お父様が独立されるきっかけになったエピソードなどは、何か聞いていらっしゃいますか。
押谷 当時、スウェーデン製の「フォルダーグルア」という段ボールの自動機械が日本に入ってきてね。東京や大阪、名古屋なんかの大きな会社にポツポツと導入され始めていたんです。非常に高価な機械で、1ドル360円の時代だったから、普通の中小企業にはとても手が出ない。そしたら、地元のお客さんがそれを買って、「もう1台欲しいんだけど高すぎて買えないから、押谷さん、これと同じように動くやつを安く作ってくれないか」と頼まれたらしいんです。それが自動機械の製造に参入した本当のきっかけだったと聞いています。
――そこから会社がどんどん大きくなっていったのですね。社長ご自身は、子供の頃からいずれは会社を継ぐという意識があったのでしょうか。
押谷 いや、全くなかったですね(笑)。中学時代はバスケットボールばかりやっていて、実家が何の会社をやっているのかも、お父さんが社長だということも、全然ピンときていませんでした。家に帰ってきたらただの普通のお父さんでしたからね。機械いじりが好きだったわけでもないし、高校に入っても全く家業のことは考えていませんでした。とにかく漠然と「将来は商社に入って、海外を舞台に働きたい」とずっと思っていたんです。
――高校や大学では、海外に対する強い憧れがあったのですか。
押谷 高校2年の時にね、陸上部の先輩が「9月からアメリカに交換留学する」と言い出して、それがものすごく衝撃的だったんです。その先輩はすごく賢くて、1年後に帰ってきたら僕たちと同じ学年になるんだけど、英語の発音もめちゃくちゃかっこよくなっていてね。「こんな選択肢があるのか、自分も絶対に留学したい」と思うようになりました。それで早稲田大学に進学してからも、自分で色々とツテをたどって、客員教授に直接掛け合いに大阪まで会いに行ったりしてね。そうやって推薦状をもらって、日本人がほとんどいないワイオミング州立大学へ1年間留学しました。とにかくじっとしていられなくて、行動力だけは人一倍あったんだと思います。
――大学を卒業されてからは、念願の商社へ進まれたのですね。
押谷 そうですね。当時はバブルが崩壊した直後の就職氷河期でしたけど、アルバイト先の紹介もあって、大手食品製造会社の子会社だった食品専門商社に入社しました。入社してすぐに香港支店で欠員が出たと聞いて、すぐに「行かせてください」と手を挙げてね。とにかく過酷な環境だったけど、自分から望んで行ったから苦にならなかった。毎日、お付き合いの会食が遅くまであって、日付が変わる前に家に帰ったことは一度もありませんでした。お寿司屋さんや日本料理店の板前さんと仕事の話ができるのが夜10時過ぎだから、それまでカウンターの片隅でビールを飲みながら待って、そこから営業活動が始まるような生活でしたね。
畑違いの「色塗り」から始まり、点と点が繋がって会社を救った海外事業
――そんな香港でのハードながらも充実した生活から、どのような経緯で名古屋市守山区の押谷製作所へ戻ることになったのでしょうか。
押谷 香港で5年ほどがむしゃらに働いて、ふと「これ以上この仕事を続けていても、自分の中で新しい展望が見えないな」と、少しマンネリを感じ始めていた時期があったんです。ちょうど1997年の香港返還の激動の時代を現地で過ごしていた頃でした。そんな時に、飛行機嫌いの父親が、孫の顔を見るという名目でフラっと香港にやってきましてね。何かを直接言われたわけではないけれど、自分の中の潜在意識にあった「いつかは家業に戻るべきなんじゃないか」という思いがフツフツと湧き上がってきて。それで会社を辞めて、30歳の時に日本に戻ってきて、押谷製作所に入社することに決めました。
――30歳で畑違いの業界から入社されて、最初はどのようなお仕事からスタートされたのですか。
押谷 最初はもう、機械の知識なんて何もないですからね。部品の色塗りから始めましたよ。工作機械を使って部品を削るような技術は僕にはないし、周りの職人たちからは「あいつは何ができるんだ」という目で見られていたと思います。でも、僕は営業として入ったわけだから、とにかく必死に勉強しました。自社の機械のことだけじゃなくて、他社製品の良いところや悪いところを現場の製造責任者や社長さんたちといったお客さんに教えてもらいながら、知識を吸収していったんです。
――当時の国内市場の状況はどのような感じだったのでしょう。
押谷 当時はうちの機械が本当に売れなくてね。競合メーカーがとんでもなく安い値段で値下げ競争を仕掛けてきて、まともにぶつかったら太刀打ちできない状態でした。そこで僕は、段ボール製函機 の特定の部品(他社製品にも取り付けられるもの)を独自に改良して、「既存の機械にこの部品に入れ替えませんか」というDMハガキを、北海道から沖縄までの全国の段ボールメーカーに送ったんです。当時はインターネットもGoogleもない時代ですから、業界誌のリストを頼りに手書きでね。
――そのDM営業の反応はどうでしたか。
押谷 これがすごく効果があってね。問い合わせをくれたお客さんのところに行って、「効果がなければ1ヶ月で返品してくれて構いません」とお試しで導入してもらったんです。そうやって実際に使ってもらいながら、効果のデータを地道に集めて、データベースを作っていきました。そのデータを次のDMに載せて送る、というサイクルを何年も回し続けたら、徐々に信頼を得て注文がもらえるようになって。右も左もわからない状態でしたけど、この地道な営業方法で販路を拡大していきました。
—―さらに、そこから会社の大きな柱となる「海外事業」を開拓されたのですね。
押谷 そうそう、1998年に戻ってきて、2000年頃にたまたま香港の会社から商社経由で「中国・深圳(しんせん)市の工場に日本の機械を導入したい」という引き合いが来たんです。僕が香港にいたことを知らない商社だったんだけど、僕が「香港ならよく知ってますよ、2年前まで住んでましたから」と答えたら、トントン拍子で話が進みまして。父親は昔、海外取引でいきなりキャンセルを食らって倒産寸前までいった苦い経験があったから、最初は猛反対されました。でも、僕は商社時代の経験から「出荷時に9割の代金を回収するスキーム」を作って説得したんです。「この契約なら絶対に確実に回収できるから大丈夫だ」ってね。
――お父様の過去の失敗を、ご自身の商社時代の知識でカバーされたのですね。まさに点と点が繋がった瞬間です。
押谷 本当に不思議なほど、これまでの経験が全部繋がっていきましたね。それから中国市場がものすごい勢いで成長して、うちの機械が飛ぶように売れました。その後、2008年のリーマン・ショックで日本国内が大変なことになった時も、中国政府が莫大な補助金を市場に融資したおかげで、現地の段ボールメーカーがこぞって設備投資をしたんです。その波に乗れたおかげで、うちの会社はリーマン・ショックの時、同業他社が苦しむ中でめちゃくちゃ業績が良かった。あの時に海外事業を始めていなかったら、今頃この会社はなくなっていたかもしれません。
同業と首の絞め合いをするのではなく、共存し、先を見据えて
――2012年に代表取締役に就任されてから10数年が経ちますが、現在の経営状態や今後の市場についてはどう見ていらっしゃいますか。
押谷 リーマン・ショックの時期とはガラリと変わって、コロナ禍が明けてからはなぜか国内の需要がすごく増えています。今は売上の8〜9割が日本国内ですね。というのも、段ボール機械の更新サイクルってだいたい25年から30年なんです。今から30年前というと、ちょうどバブル崩壊前後にライバル企業が安い価格で市場に大量に導入した機械が、今あちこちで一斉に限界を迎えている。その入れ替えの引き合いが、今うちのところにたくさん舞い込んできている状態です。
――30年前のライバル企業の動きが、巡り巡って今の御社のチャンスになっているのですね。
押谷 そうなんですよ。当時は専門メーカーも何社かあって、お互いにしのぎ合っていましたが、今は数も減って、お互いに情報交換をしながら、良い関係を築けています。昔みたいにライバル関係で「うちの方が100万円安いですよ」なんて首の絞め合いをしていても、市場全体が小さくなっている今の時代、何のメリットもないですからね。お互いに適正な価格で、良いものを提供していくことが大事だと思っています。
――今後の会社づくりや、今のメンバー体制についてはいかがですか。
押谷 今の体制はすごく良い感じだと思っています。従業員数はそれほど多くはないけれど、新しく入ってきた中堅社員が「自分でこういう設計をやりたい」と自発的にアイデアを出して、どんどん戦力になってくれています。以前、方向性の違いで身内が会社を離れてしまったり、採用した人が定着しなかったりと、人の面で苦労したこともたくさんありました。だからこそ、今こうして自発的に動いてくれるメンバーが集まっている現状を、すごく大切にしたいなと思っています。
失敗なんて2回まではプロセスだから、小さくても一歩を踏み出す勇気を持ってほしい
――最後に、このインタビューを読んでいる、これからのキャリアに漠然とした不安を抱えている20代、30代の若手ビジネスパーソンに向けてメッセージをいただけますでしょうか。
押谷 とにかく「行動力」を持ってほしいですね。失敗を恐れて、言われたことだけをやるとか、受け身で待っているだけなのは本当にもったいない。僕は自分で何か新しいことをやりたいと言ってくれる若手には、極力「やってみなよ」と答えるようにしています。失敗を恐れる気持ちは分かるけれど、僕は「失敗は2回までいいよ」と言っているんです。最初の失敗は仕方がない。そこでやり方を変えてみて、もう1回失敗するまでは、成功するためのただの「プロセス」だからね。3回同じ失敗をしたら流石に怒るけれど(笑)、2回までは大歓迎です。
――「失敗は2回までいい」という言葉は、失敗を恐れて一歩を踏み出せない若手にとって、ものすごく救いになりますね。
押谷 だって、やったことのない新しいことに挑戦するのに、最初から正解なんて分かるわけがないじゃないですか。今、うちの若手メンバーとも「業界に手詰まり感があるから、何か面白い新しい技術を取り入れよう」と話していて、近々ロボット展に視察に行く予定なんです。中国製の人型ロボットとかをうちの機械に組み合わせて使えないかとか、AIをもっと活用できないかとかね。そういう新しい柔軟なアイデアは、やっぱり若い人の方が圧倒的に知識もセンスもありますから。小さくてもいいから、まずは一歩を踏み出す勇気を持って、どんどん面白いことを提案してほしいですね。そういう挑戦を、僕は全力でサポートしていきたいと思っています。

「失敗は2回までいい。それは成功へのプロセスだから」
そう語る押谷社長の言葉には、数々の荒波を乗り越えてきたからこその圧倒的な説得力と温かさがありました。中国製ロボットの導入やAIの活用など、伝統的なモノづくりの枠に囚われず、若手の感性と挑戦を全力で後押しする株式会社押谷製作所。この懐の深いリーダーが率いるチームの挑戦は、これからも私たちの想像を超えるスピードで加速し続けそうです。
この記事を書いた人
岡田大貴
2011年中途入社。求人広告業界歴18年以上。一貫して愛知県の中小企業様の採用をご支援。アルバイト・パート・派遣から正社員まで幅広い雇用形態に対応可能。常にお客様に寄り添う「伴走型」のパートナーとして、採用課題の解決に向けて一緒に取り組んでいる。
営業
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