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笠原 照基氏
曙螺子工業株式会社
代表取締役社長
(かさはら てるもと)/1963年頃生まれ。大学卒業後、東京のネジ会社での修行を経て20代前半で曙螺子工業に入社。2006年、42歳で社長就任。先代の独自の経営スタイルから「組織」への脱皮を図る際、古参社員との決別という経営者としての痛みを経験。その後、自ら採用した若手たちと仕事以外の時間も濃密に共有し、バレーボールなどで絆を深めながら新たな組織を構築。自動車業界の成長の波に乗り、就任時から売上を倍以上の20億円超へと成長させた。
愛知県には、私たちが普段生活しているだけでは決して見えてこない、しかし確実に社会の根底を支えている無数の製造業が存在しています。毎日決められた時間にオフィスへ向かい、パソコンの画面と向き合いながら「自分はこのままでいいのだろうか」「働くってそもそも何だったっけ」と、漠然とした悩みを抱える夜。効率化や合理化ばかりが叫ばれ、まるで自分が組織の歯車の一つになってしまったかのように感じる現代だからこそ、知ってほしい物語があります。それは、泥臭くて、人間臭くて、人と人との確かな体温が通い合う会社のリアルな歴史です。
愛知県東郷町に本社を構え、自動車部品などの重要な接合部を担うネジの製造を手がける曙螺子工業株式会社。現在では約60名の社員を抱え、売上高20億円を誇る安定企業ですが、その原点はなんと「銭湯の片隅」という異色のスタートでした。二代目である代表取締役社長の笠原照基さんに、社員と膝を突き合わせて語り合い会社を創り上げてきた熱い日々、そして先代のいいところも引き継いだ代替わりにおける痛みを伴う葛藤まで、決して綺麗ごとだけではないリアルな言葉で語っていただきました。
銭湯の片隅で始まった「男の商売」。見よう見まねのネジ作り
――創業の経緯が非常に気になっているのですが、お父様がネジの製造を始められる前は、ご実家で銭湯をやられていたそうですね。
笠原社長(以下、笠原):そうなんですよ。うちの親父の父親、つまり私のおじいちゃんにあたる人が、もともとアマチュアの相撲取りだったんですが、とても遊び気の良い人でしてね。その代わりに、おばあちゃんが息を切らしながら銭湯を切り盛りして、なんとか一家を支えていたというのが笠原家のルーツなんです。当時は昭和30年代ですから、まだ各家庭にお風呂もテレビもない時代でして、銭湯というのは単に体を洗う場所ではなくて、地域の人が集まってきてラムネや牛乳を飲みながら一日の疲れを癒す、ものすごく重要なコミュニティの場として機能していました。
ーー社長のお父様が、家業であった銭湯をそのまま継ぐことはしなかったのはなぜなのでしょうか。
笠原:親父には姉が2人いて弟が1人いたんですが、お姉ちゃん2人は三味線や踊りを習わせてもらってきちんとした格好をしているのに、男兄弟はランニングシャツ一枚のボロボロの格好をさせられていたりしました。近所からは『本当に同じ親から生まれた姉弟なのか』と言われるくらい差があったそうです。そんな環境で育ち、母親が苦労して銭湯をやっている姿をずっと見ていたせいか、『これは女性の仕事であって、男のやる生涯の商売じゃない。自分は男の商売がしたい』という強いハングリー精神があったみたいなんですよね。それで、岐阜県の羽島で鉄工所をやっていた親戚に『何かこれから伸びる商売はないか』と相談しに行ったところ、『これからは色々な部品に使われるネジがいいんじゃないか』と勧められたらしいんです。そこでお風呂屋で儲かっていたお金を元手に、機械の展示会に行って、使い方すら全く分からないのに当時で70万円から80万円もするような高価な転造盤という機械をポンと買ってきてしまったんですよ。
――いきなり高価な機械を買ってくるというのはかなり思い切りましたね。そこから一体どうやってネジ作りをスタートさせたのでしょうか。
笠原:銭湯のすぐ近くにちょっとしたスペースがあったので、そこにもともとあったトタン屋根の小屋に機械を置いたものの、当然誰も動かし方が分かりません。当時は大手メーカーの機械なんて買えないような時代ですから、同業の人たちが組合のようなものを作って共同で機械を持っていて、親父はそこに大学出だという経歴を隠して手伝いに行き、なんとか仕事を教えてもらおうと潜り込んだんです。そこで古い職人さんを見つけて個人的に抱え込み、銭湯に入ってもらってさっぱりしてもらった後に一杯飲ませて接待をして、夜に親父がその機械のところへ連れて行って個人レッスンを受けるという、そんな無茶苦茶なスタートだったんですよ。
途方に暮れた環境から始まった、仲間づくりの日々
4月に機械を買い、職人さんを接待して見よう見まねで使い方を覚え、その年の11月にはなんとか製品が出せるようになったという凄まじいスピード感。笠原社長自身は、幼い頃からその泥臭い製造現場と隣り合わせで育ってきました。
笠原:私が物心ついた頃にはもう親父はネジの仕事にかり出されていて、昼間は銭湯の番台に座りながら、夜中になると製造現場に行ってガシャンガシャンとネジを切るという、まさに昼夜問わずのフル稼働状態でした。親父が別の商売を始めてどんどんそっちが大きくなって忙しくなってしまったので、家の中もぐちゃぐちゃでしたし、親が休んでいる姿なんて見た記憶がありません。私自身は大学を出た後、親父から『2年間は外で仕事をしてこい』と言われて東京のネジメーカーで修行をしてから、昭和63年にこの会社に入社したんですが、当時の工場は従業員が20人弱くらいで、正直に言うと最初は『こんな環境でやっていけるのか』と途方に暮れた部分もありました。
――そこから、今の会社を屋台骨として支えているような若い幹部の方々を、どのように集めていったのでしょうか。
笠原:とにかく一緒に戦っていける仲間、一緒に働ける若い人材が喉から手が出るほど欲しかったので、当時の求人誌に広告を出して、今の幹部連中を含めた若い子たちを採用していきました。当時はまだ私自身も20代半ばで独身でしたし、彼らに対して『ああしろ、こうしろ』と上から目線で言うのではなく、仕事が終わったら一緒にパチンコに行ったり、飲みに行ったり、みんなでキャッチボールをしたり、ネットを張ってバレーボールをして遊んだりしていましたね。会社の敷地内に一軒家の寮があったので、そこに座布団を敷いて夕飯を一緒に食べて、そのまま麻雀をして泊まり込むような、仕事以外のコミュニケーションがとにかく濃密だったんです。今思えば、そうやって寝食を共にしてぶつかり合いながら時間を過ごした経験があったからこそ、私が二代目として社長になる時も彼らがしっかりと主力として支えてくれたんだと思います。
組織化への葛藤と去っていった古参社員
平成18年、43歳の時に代表取締役社長に就任した笠原社長。仲間たちとの強固な信頼関係を築き上げていたものの、カリスマ的な創業社長からの代替わりは、決してスムーズで綺麗なものばかりではありませんでした。
笠原:親父は良くも悪くも『俺流』というか、一人で何でもできてしまうカリスマタイプの経営者でした。でも、私は会社をこれから先も大きく成長させていくためには、属人的なやり方ではなくて、もっと組織としてルールを決めてきちんと運営していくべきだとずっと考えていたんです。それで私が社長になった時に色々とやり方を変えようとしたんですが、銭湯時代から寮に住み込んでずっと親父と一緒にやってきた古参の工場長が、その変化をどうしても受け入れられなくて猛反発してきましてね。『やり方が変わるなら俺は辞める』と言い出したんです。
――会社を支えてきたベテラン社員との摩擦。それは新社長として非常に大きな危機だったと思いますが、どうやって乗り越えられたのでしょうか。
笠原:確かにその人は昔から会社を支えてくれた恩人ですし、私の小さい頃のこともよく知っている人です。でも、私は会社を良くしようとして新しいルールを作ろうとしているだけで、決して悪いことをしているわけではありません。悪いことをしていないのに、ここで頭を下げて彼のご機嫌を取ってしまったら、これから先、組織としてまともな経営なんて絶対にできないと思ったんです。先代の父も私の方針に納得してくれていたので、結果的に彼が会社を去ることになりました。一時的に現場は大変なことになりましたが、あそこで私が自分の信念を曲げなかったからこそ、今の組織の形が作れたのだと確信しています。これまで会社を支えてくれた人に辞められるというのは本当に辛い経験でしたが、経営者として会社を次のステージへ進めるためには、どうしても越えなければならない壁だったのだと思います。
三輪車での飛び込み営業から60年。変わらない恩と繋がり
社長就任から約20年。売上規模も当時の8億円から20億円へと倍以上にスケールアップを果たし、福利厚生の改善や休日の増加など、社員が働きやすい環境づくりにも力を入れてきました。しかし、会社がどれだけ大きくなっても、絶対に変わらないものがあると言います。
笠原:親父が創業したばかりで仕事が全くなかった時、電話帳をパラパラと捲って一番新しそうな名前を見つけて、自ら三輪車を運転して『仕事をいただけませんでしょうか』と飛び込み営業に行った会社がありました。それがとある大手ネジメーカーで、材料をもらって夜中にうちで加工して、朝一番で納品するという泥臭い仕事を繰り返すうちに、少しずつ信用をいただいて商売が軌道に乗っていったんです。実は今でも、うちの売上の大部分はそのメーカーさんとの取引が占めているんですよ。時代が変わって会社が大きくなっても、最初にうちを信用して仕事を任せてくれたご恩と、そこから60年近く続く義理人情のような繋がりは、絶対に忘れてはいけない根幹の部分ですね。

「このままでいいのかな」と迷いが生じたとき、私たちはつい、新しくて綺麗で、スマートな解決策を求めてしまいがちです。しかし、半世紀以上もの間、モノづくりの最前線を走り続けてきた曙螺子工業の歴史を紐解くと、そこにあるのは決して洗練された美しい歩みの軌跡だけではありませんでした。使い方も分からない機械を前に途方に暮れた夜があり、寮で社員と肩を並べて麻雀を打った日があり、組織を変えるために恩人との決別を選ばざるを得なかった苦悩の朝がありました。綺麗ごとだけでは語れない、泥臭くて人間臭い葛藤の積み重ねこそが、働く人たちの確かな「体温」となり、今もこの会社の根底に脈々と息づいています。働く意味を見失いそうになったとき、この不器用で真っ直ぐな歩みの記憶が、あなた自身の明日を踏み出すための小さな灯火になるのかもしれません。
この記事を書いた人
宗宮彰良
ツムログ副編集長。2012年に新卒でアクセスに入社し中小企業の社長のお悩みを500社以上サポート。採用の枠を超えたお悩み解決をモットーに月間50件の商談をさせていただいています。想いが強ければ採用はうまくいく。一緒に想いをかなえましょう。
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