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山田 剛士氏
株式会社マウンテック
代表取締役社長
(やまだ つよし)/大学で建築を学び、別会社での勤務を経て家業である同社へ入社。入社3年目に主要取引先の倒産で売上が7割減る危機に直面。当初は「これで会社を辞められる」と一瞬逃げを考えるも、現場で泥臭く仕事を覚える中で会社を支える覚悟を育む。2016年の社長就任後は「社員に我慢させない会社」を目指し、猛烈な新規開拓で顧客を拡大。社員旅行等の行事も大切にする、等身大で温かい人柄が魅力の経営者。
社会人になって数年が経ち、日々の業務にはすっかり慣れたものの、「自分はこのままでいいのだろうか」と漠然とした不安を抱えながら夜を過ごすことはないでしょうか。 明確な目標や「絶対にこの仕事を成し遂げるんだ」という強い意志を持って社会人生活をスタートさせられる人は、世の中を見渡しても実はそう多くないのかもしれません。 愛知県で配電盤などの金属製品製造を手がける株式会社マウンテックの山田社長も、最初から「家業を背負って立つ」というような確固たる使命感に燃えていたわけではありませんでした。 むしろ、最大の取引先が倒産し、会社の売上の7割を失うという会社の存続に関わる大ピンチに直面した際、心に真っ先に浮かんだのは「これで会社を辞められる」という人間臭い本音だったと言います。 逃げたい気持ちを抱えながらも、なぜ現場で泥臭く仕事を覚え、やがて「社員に我慢させない会社づくり」へと奔走するようになったのか、山田社長の等身大の歩みと、その裏にある静かな熱意についてお話を伺いました。
就職氷河期と、なんとなくで始まった家業での日々
――最初から「いつかは家業を継ごう」という強いお気持ちがあったのですか。
山田社長(以下、山田):いや、そんな強い責任感を持って「私が継ぎます」というような感じでは全く育っていないんですよ。親からも将来会社を継ぐことを前提とした話は基本的にはあまりされてこなかったですしね。 ただ、子どもの時に会社の忘年会や行事、社員旅行なんかに連れて行ってもらっていたので、小さい頃からそういう社員の方々との繋がりや会社の雰囲気を感じる機会はありました。 私自身は最初からうちの会社に入るつもりは全くなくて、大学では大阪で建築を学んでいたのですが、ちょうど時期的に就職氷河期でなかなか就職先が決まらなくてですね。 周りの友人たちがどんどん決まっていくのに自分だけ決まらない状況で焦りもあり、父親のツテで建築設計事務所などを聞いてもらったりもしたんです。 でも、どうせ社長の息子だから何年かしたら辞めていくんだろうというような、そういう色眼鏡で見られるのも嫌だなと感じていたんですよね。
――ご両親からの紹介や家業に頼り切らず、ご自身でしっかりと納得のいく就職先を探そうとご自身の足で動かれたのですね。
山田:そうですね。すぐに家業を継がせるのではなく、まずは外で仕事をする経験を積ませるという教育方針だったのかもしれません。それで大学4年生の1月くらいに、母親に言われて合同説明会みたいな企業展に足を運んだんです。 そこで、実家から車で5分くらいのところにあるプラスチックの試作屋さんがあって、なんとなく直感で面白そうだからそこの会社に入りますと決めて、1年間くらい働かせていただいていました。
――そこから別の会社での勤務を経て、どのようなきっかけで家業である現在の株式会社マウンテックに入社することになったのでしょうか。
山田:たまたま実家の会社でCADを担当していた方が辞めるというタイミングがあって、親から「うちの会社に入れ」と声をかけられたんです。 CADのことは専門的に何も知らないし、それまで一度も触ったことすらなかったんですけどね。大学で建築の勉強はやっていたんですけど、実はパソコンを使った作業が大嫌いで、紙に書く手書きの方しかやっていなかったんですよね。 でも図面を読むこと自体はできたから、とりあえず入社して、そこから現場でCADの使い方を教えてもらってという感じで、全くの未経験で完全に手ぶらで来たような状態でしたね。
売上7割減のピンチに直面し「これで辞められる」と思った瞬間
――全くの未経験で家業に入社されてからしばらくして、会社の存続に関わるような非常に大きな危機があったとお聞きしました。
山田:入社して3年目ぐらいの時に、当時のうちの一番大きな取引先が民事再生になってしまい、会社の売上が7割くらいドーンと一気になくなってしまったんです。 従業員も40人くらいいたのが20人くらいに減ってしまい、年齢がいっている方には退職を勧めることもありましたし、若い子も不安で辞めていってしまう非常に厳しい状況でした。 残った従業員全員と個別に面談をしながら、どうにかしてこの難局を乗り越えようと必死にもがいて、全員で不安を共有しながら対応していました。
――会社の売上が一気に7割も減るというのは想像を絶する事態ですね。その時、山田社長はご自身の中でどのようなお気持ちを抱えられていたのでしょうか。
山田:実は僕、入社してすぐに専務という役職についていたんですけど、その一報のFAXが届いた時に僕と課長と工場の4人で先代である父親のところに呼ばれたんです。 そのFAXを見た時、もちろんものすごいプレッシャーも感じたんですけど、正直なところ「やった、これで会社を辞められる!」と一瞬心の中で思ってしまったんですよ。 会社がこのまま立ち行かなくなるなら、僕もこのタイミングで一緒に辞めていいじゃないかと、どこかホッとした自分がいたのは事実です。 当時、大学時代から付き合っていた彼女が大阪にいて、関西の企業から「うちに来てくれればよかったのに」と言われていたところだったので、これで会社を畳むことになって大阪に行けるって本気で思いました。 入社する初日も、名古屋高速を通って蟹江のインターで降りる時に、「俺は一生ここをこの時間に降り続けるのか」と葛藤していて。 真っ直ぐ行けば彼女のいる大阪に行けるのになって、一瞬で決めなきゃいけないような迷いがあったんです。だから、民事再生のFAXを見た時は本当にこれで全てから解放されるって思っちゃったんですよね。 でも、従業員が半分になっても、先代は会社をなんとかして立て直すという強い意識を持っていたんです。こういう厳しい世の中で立て直すんだと決意してやっている姿を見て心を動かされました。 いろいろなお客さんのところに連れて行かれたり、打ち合わせをさせられたりして、自分も逃げるわけにはいかないと必死に食らいついていきました。
泥臭く現場で怒られながら、徐々に芽生えていった責任感
――現場でお客様から厳しいお言葉をいただき、泥臭く仕事を覚えていく中で、ご自身の中で少しずつ心境の変化があったのですね。
山田:入って3年目だしわからないことだらけなんだけど、自分自身でやらざるを得ないじゃないですか。社内でもうまく助けを求められなかったし、聞く人もその担当のお客さんしかいない状況でした。 お客さんに「こんなこともわからないのか」と厳しいお言葉をいただきながらも、なんとか対応していくうちに、だんだんと自分の中に責任感のような意識が芽生えていきました。 明確な自信がついたというよりは、単純に目の前のやれることが少しずつ増えていっただけなんですけど、逃げずに泥臭く現場で学んでいった経験が非常に大きかったですね。 その時は全く新しいお客様を探す新規開拓というよりは、昔お付き合いがあったところをもう一度掘り起こしていくような地道な営業活動を一生懸命やっていました。
――地道な営業活動を経て、2016年にマウンテックの社長に就任されますが、どのような経緯で代替わりをご決断されたのでしょうか。
山田:私が40歳になる手前の頃、(父に対して、)父の経営者仲間、税理士の先生、銀行の支店長が、「そろそろ社長交代したらどうですか。」と言ってきたんです。 当時の先代は60代後半くらいで、周りがすごく言ってくるから、先代も「そろそろ代わろうかなと思っているけど、お前はどう思う?」と聞いてきたので、「すぐ代わってください!」と即答しました。 その頃にはもう自分がこの会社を引っ張っていくんだという覚悟は完全に決まっていましたから、迷うことなく前向きに引き受けることができましたね。
「社員に我慢させたくない」猛烈な新規開拓に挑んだ理由
――いざ社長に就任されてから、会社のこれからの方向性や営業のやり方において大きく変えた部分などはありましたでしょうか。
山田:社長を交代して一番最初に徹底してやったのが、とにかく猛烈に新しいお客様を探す新規開拓でした。営業担当は自分一人で、とにかく新規のお客さんを広げるんだと決意して、思いつく限りのいろんな手段を使ってやりましたね。 それまではお付き合いしているメインのお客さんが6社くらいで、受注する仕事量にすごく大きな波があったんです。業績がいい時は土日も仕事をして大忙しなんだけど、春先になると仕事が減ってめっちゃ暇になってしまう。 僕はこういう不安定な状況がすごく嫌で、ずっと年間を通して一定の仕事があるようにしたいなと強く思っていたんです。こちら側でしっかりと仕事を選べるような余裕のある状態にしたいなと。
――先代のやり方とは大きく方針が違っていたのですね。波があっても既存客を大切にするスタイルから、なぜそこまで新規開拓という困難な道に強くこだわったのでしょうか。
山田:先代は、既存のお客さんのために、仕事の波があっても他の仕事はやらずにちゃんとお客さんのために尽くすというスタイルだったんです。 でも、僕はそういう不安定な働き方って、現場で実際に働く人たちにとっては精神的にも体力的にもすごくしんどいなと思っていて。 業績が悪いから今年のボーナスは出せませんとか、今年も苦しいけど我慢してねみたいな話は、社員に対して絶対にしたくないじゃないですか。 だから年間を通してしっかりと安定して仕事ができるようにしたくて、とにかく仕事を受けられるように新規開拓で営業エリアも広めて、関東の方や関西の方まで足を運びました。新規顧客を増やし、経営を安定させ持続的な経営をしていくことこそが、結果として真にお客さんのためになると考えていますから。
――具体的にはどのような手段やアプローチ方法を使って、未開拓のエリアでの新規開拓をゼロから進められたのでしょうか。
山田:インターネットで対象になりそうな企業を探して電話するとか、協力企業さんに「どこか紹介してくれない?」と頼み込むとか、材料屋さんや商社さん、機械屋さんなんかにも声をかけて回りました。 あとは名古屋商工会議所や愛知産業振興機構がウィンクあいちで開催している、アライアンスパートナー発掘市みたいな企業同士の商談会にも年に何回も行きまくりました。 東京商工会議所が主催する商談会にも積極的に参加して、考えられるあらゆる手段を使って新しいご縁との接触を増やしていきましたね。 直接の飛び込み営業はやっていないですけど、泥臭く動いた結果、6社だったのが延べで言うと100社は超えて、今でも継続して繋がっているのは30から50社くらいに増えました。 仕事量に波があっても、こっちの業界が減ったらこっちの業界から仕事が来るみたいに、ある程度自分たちでコントロールできる状態を時間をかけて作っていったんです。
半導体不足での挫折と、社員の温かい居場所をつくる未来
――猛烈な新規開拓の努力が実を結んでいった中で、思い通りにいかなかった苦労や、心が折れそうになった挫折などはありましたか。
山田:2021年の年末くらいから世の中全体を襲った深刻な半導体不足の時は、これまで積み上げてきたものが崩れるようで本当にショックで心が折れそうになりましたね。 うちが作っている配電盤の需要自体はたくさんあるのに、中に入れるブレーカーや半導体が全く入ってこなくて、製品が完成しないから受注ができないんです。 世の中がロックダウンしたりして物理的に物が入ってこないから、うちが一生懸命作っている板金の箱もいらないという事態になってしまって。結局、半年くらいで売上が2〜3割落ちてしまいました。 あれだけ会社の波をなくすために一生懸命走り回ってお客さんを増やしたのに、「どうしてこんなことになってしまったんだ」と思って。 自分自身が信じてやってきた正しいはずの行動が、外部環境によって全て否定されたような気がして、めちゃめちゃ落ち込みました。
――ご自身の努力や行動だけではどうにもならない予測不可能な外部要因での大きな打撃は、経営者として本当にきつい経験ですね。
山田:でも、働いてくれている従業員の生活を守っていかなければならないから、立ち止まっている暇はないし、やるしかないってすぐに気持ちを切り替えていきましたね。 結果的には、その前までの数社に依存するスタイルだったらもっと大きく落ち込んでいただろうから、事前にお客さんを増やしておいたことで2割減で済んだんだと思うようにしました。 あの泥臭い新規開拓の日々で自分がやってきたことは決して間違いじゃなかったんだって、自分自身に強く言い聞かせて乗り越えました。
――社員の方々の生活や働きやすさを大切にされている姿勢がすごく伝わってきますが、今も社員旅行などの行事は続けられているとお聞きしました。
山田:はい、社員旅行はコロナ禍などの事情がない限りはほぼ毎年恒例の行事としてみんなで行っていますよ。今年は3月に諏訪・蓼科へ行って、みんなでスキーをやりました。 スキーをやったことがない若い子が職場にいたから、じゃあ今年は冬場にみんなで雪山に行こうかってなって。幹事は僕が自らやっていて、どこに行くかもみんなの意見を聞いて決めています。 来年は2泊3日で少し遠くまで行こうかなんて話も社員たちとワイワイしていますね。社員旅行には家族も連れてきていいよって言っていて、実際に奥さんや子どもを連れてくる社員もいます。 うちは高卒で入社して一生懸命頑張ってくれる若い子もいるので、そういう家族ぐるみの温かいチームの雰囲気はずっと大事にしていきたいなと思っています。
――最後に、株式会社マウンテックとしての今後のビジョンや、山田社長がこれから挑戦していきたいことについて教えてください。
山田:会社として無駄に規模を大きくしたいとか、工場をどんどん増やして拡大路線に行きたいというような欲は今のところあまりないんです。 それよりも、長年培ってきた配電盤などの金属加工の技術を使って、新しい領域での可能性を追求していきたいと強く思っています。 最近では、デザイナーさんと組んで金属製のオリジナルの花壇を作ってみたり、今までとは違うアプローチの製品開発に挑戦してみました。 よくあるアウトドア用品の焚き火台なんかは世の中にすでにたくさん溢れているから、ちょっと違う視点からのアプローチでやってみようと。 今まで私たちがやってこなかったような新しい分野の仕事を見つけて、世の中に見つけてもらう努力をして、自分たちがやれる範囲を少しずつ広げていきたいですね。

「これで会社を辞められる」という、働く人なら誰しもが一度は抱きうる人間臭い本音からスタートしたマウンテック山田社長の歩み。 最初からかっこいい志がなくても、目の前の「やらざるを得ない」状況から逃げずに泥臭く向き合うことで、やがて「社員に我慢させたくない」という確固たる信念が生まれました。 私たちが日々の業務の中で感じるマンネリや漠然とした不安も、もしかしたら目の前の現実にぶつかり、自分なりの責任感を手に入れるための大切な過渡期なのかもしれません。 自身の失敗や予測不可能な挫折に深く落ち込みながらも、社員の生活や笑顔のために泥臭く歩みを止めない経営者の姿があります。 そんなマウンテックの温かい体温を感じるエピソードは、スマートさばかりが求められがちな現代において、「働くことのリアルな手触り」を思い出させてくれます。
この記事を書いた人
小川藍
新卒2年目。大学での心理学の学びがきっかけで、「人の心を動かす」ことに興味を持ち、求人業界に飛び込む。「人と企業を結ぶ採用支援」に魅力を感じ日々営業活動中。「あなただから頼みたい」そう言っていただける営業を目指し、日々営業中。
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