「無知は罪だなと思った」──広く浅くではなく、一人ひとりと深く向き合い、企業の“お困りごと”に伴走する社労士の物語
目次
髙橋 豊 氏
社会保険労務士法人 ゆたかパートナーズオフィス
代表
(たかはし・ゆたか)/ 1977年生まれ、愛知県刈谷市出身。金沢工業大学工学部建築学科卒業後、工務店の現場監督などを経て、建設・不動産会社の総務・人事として11年間勤務。36歳で社会保険労務士資格を取得し、2015年に「ゆたか社労士事務所(現・ゆたかパートナーズオフィス)」を設立した。 「社労士=堅い専門家」という枠にとらわれず、企業のお困りごとに寄り添う伴走型の支援を実践。「Make a Fan(ファンを増やす)」という考え方を大切に、人を大切にする利他の精神で全国の企業を支えている。
「もともとは人付き合いが得意ではなく、一人でいる方が好きだった」と笑う高橋さんが、なぜ今、企業の痛みにどこまでも寄り添う『Make a Fan(ファンを増やす)』を合言葉に、熱い熱量で走り続けているのか、高橋さんが歩んできたリアルな軌跡をお届けします。
物理のテストは赤点、デザインのセンスに自信が持てず……流されるように始まったキャリア
―― 高橋さんのこれまでの道のりを伺いたいのですが、もともとは理系の建築学科のご出身なんですね。社労士とは全く違う分野からのスタートだったのですか?
高橋 そうなんですよ。本当に、今の仕事とは全然関係ないところからのスタートなんです。大学は金沢工業大学の建築学科に進学しました。でも、実は最初から建築をやりたいと思っていたわけじゃないんですよ。もともとは文系に進みたかったんです。ただ当時は親から「理系の方が将来の選択肢が広がるぞ」と勧められて、「じゃあ、そうしてみようかな」というくらいの気持ちで理系を選んだんです。
―― 親御さんの勧めったんですね。理系の勉強は得意だったのですか?
高橋 いや、本当に物理は苦手でしたね(笑)。高校の時なんて赤点でしたから。「物理だけは勘弁してほしい」という一心で大学を探していました。それで最後の最後、3月に合格したのが金沢工業大学です。建築学科を選んだのも、「物理が少なそうだし、文系に近いかな」という、本当にそれくらいの理由でした(笑)。18歳で実家を離れて金沢へ行って、4年間を過ごしました。
―― なるほど。では、大学を卒業されてからの就職はどうされたのですか?
高橋 大学を卒業して愛知に戻り、建設会社で現場監督として働き始めました。当時は就職氷河期の真っ只中で、本当に就職が厳しい時代だったんですよ。大学から推薦をもらえることになって、最初は別の建設会社を希望していたんですけど、友人と希望先が重なってしまって。「高橋くん、それならこっちの会社はどう?」と勧めてもらって、「じゃあ、お願いします」と(笑)。就職試験を受けたのはその1社だけ。そのまま現場監督として社会人生活をスタートしたんですが、これが僕にとって最初の大きな社会経験になりました。
―― 就職氷河期の中で、流れるように決まった現場監督のお仕事だったのですね。実際に働いてみていかがでしたか?
高橋 実際に現場監督をやってみたんですけど、「これは自分がやりたい仕事じゃないな」って感じたんですよね。だったら、自分の強みを生かせる仕事に挑戦してみようと思って、1年もしないうちに転職を決めました。でも、事務の仕事は経験がなかったので、「まずは経験を積もう」と思って、物流倉庫の事務に派遣で入りました。そこで実務を覚えながら、次のステップに向けて就職活動をしていたんです。
「従業員のご家族からめちゃくちゃ怒られて……」無知が引き起こした激しい後悔
―― その後は、どのようなキャリアを歩まれたのですか?
高橋 転職活動をしている中で、不動産の業界団体の事務局職員の募集を見つけて応募したんです。当時は就職氷河期で、本当に就職が厳しい時代だったんですが、なぜか僕、茶髪のまま面接に行っちゃったんですよ(笑)。今思えば「よく受かったな」と思います。あとから聞いた話では、適性検査の結果がすごく良かったみたいで、事務局の次長が「この子は私が育てるから、ぜひ採用しよう」と強く後押ししてくださったそうなんです。本当にありがたいご縁でしたね。実はその頃、派遣先からも「高橋さん、正社員になりませんか。仕事ぶりを見ていて、事務のセンスがあると思っていました」と声を掛けていただいたんです。僕は思わず、「えっ、それ早く言ってくださいよ(笑)」って。でも、その時にはもう不動産の業界団体へ行くことが決まっていたので、お受けすることはできませんでした。結局、その不動産の業界団体で約3年間、事務局職員として勤務しました。
―― その頃、不動産関係の資格も取得されたんですよね?
高橋 はい。そこで初めて宅建を取得しました。でも、志望動機は全然立派じゃないんですよ(笑)。「将来は不動産業界で活躍したい」というより、とにかく宅建試験の監督をやるのが嫌だったんです。当時は職員がみんな試験監督に駆り出されていたんですが、受験する職員は試験監督をしなくてよかったんですよ。それで、「だったら自分も受験しちゃえば、試験監督をやらなくて済むじゃないか」と思って(笑)。そんな軽いきっかけで勉強を始めたら、無事に合格しちゃったんです。そんなのが、宅建を取ったきっかけでした。
―― 宅建を取ったきっかけも意外でしたが、そこからどうして社労士を目指そうと思われたんですか?
高橋 不動産の業界団体で3年くらい働いているうちに、「もっと企業経営の現場に近いところで仕事をしてみたいな」と思うようになったんです。ちょうどそのタイミングで建設&不動産会社とのご縁があって、「ここなら総務や人事など、いろいろな仕事に挑戦できそうだ」と感じて転職を決めました。当時は独立なんてまったく考えていませんでしたし、その会社を辞めるつもりもありませんでした。ここで腰を据えて頑張っていこう、そんな気持ちだったんです。最初に配属されたのは総務部でした。
―― 総務部への配属が、その後のキャリアのスタートになったわけですね。
高橋 ええ。当時は社員が120人ほどの会社で、総務部も3人しかいなかったんです。だから、人事も総務も、給与計算や社会保険の手続きも、採用や社員教育、広報まで、本当に会社の裏方の仕事は何でもやりました。お客様向けのオーナー会では、弁護士の先生をお招きして法律講習会を企画したり、事務局として運営を担当したりもしていましたね。今振り返ると、会社を支えるバックオフィスの仕事は一通り経験させてもらったと思います。それに、経営者のすぐ近くで仕事をしていたので、「経営者って何に悩んで、何に困るんだろう」ということを、実際の現場で学ぶことができました。その経験が、今お客様の相談に乗る時の土台になっているんですよね。
――社労士という資格を知ったのは、その総務時代だったんですか?
高橋 そうです。入社してから、当時の上司が仕事をしながら社労士の勉強をされていたんです。それを見て、「社労士っていう資格があるんだ」と初めて知りました。ちょうどその頃、会社から「管理業務主任者の資格が必要だから、高橋くん取ってくれない?」って頼まれて、「いいですよ」って受験したら合格したんですよ。それまでに宅建も取っていましたし、管理業務主任者も取ることができて、「資格って、ちゃんと勉強すれば取れるものなんだな」って、自分の中で少し自信がついてきたんです。それで、「次は何に挑戦しようかな」と考えた時に、ふと上司が勉強していた社労士を思い出して、「じゃあ、一回チャレンジしてみようかな」と。
――どんな出来事をきっかけに「社労士になりたい」と本気で思うようになったんですか?
高橋 実は、総務として働いていた頃に、今でも忘れられない出来事があったんです。ある従業員の方が病気で長く会社を休まれることになって、その方の傷病手当金の手続きを私が担当しました。当時の傷病手当金は、今とは制度が違っていて、最初に支給が始まってから1年6か月が経つと、それで支給が終わるという仕組みだったんです。途中で体調が良くなって会社に復帰した期間があって、その間は傷病手当金を受け取っていなくても、その期間が延びることはありませんでした。つまり、実際にもらった期間ではなく、最初に支給が始まった日から1年6か月が経つと、支給が終わってしまう制度だったんです。
―― そうすると、途中で支給が止まっていても、期限が来たら終わってしまうんですね。
高橋 そうなんです。でも当時の僕は、その制度をちゃんと理解できていなくて、「大丈夫ですよ」って、ご家族にお伝えしてしまったんです。ところが、その後、その従業員の方の体調がまた悪くなって、一番傷病手当金が必要なタイミングになった時には、もう支給期間の1年6か月が終わってしまっていたんですよ。その時、ご家族から会社に電話がかかってきて、「どういうことなんですか」「これからどうしたらいいんですか」って、本当に厳しいお言葉をいただきました。
―― それは……ご家族にとっても本当に大変な状況ですし、高橋さんにとっても忘れられない出来事だったんですね。
高橋 本当に頭が真っ白になりました。自分の無知のせいで、一生懸命働いてきた従業員の方や、そのご家族をこんなにも苦しめてしまったんだと思うと、ものすごく自分を責めました。その時に心の底から思ったんです。「無知って、本当に罪なんだな」って。それまでは、社会保険の手続きも「書類を作って提出する仕事」くらいに考えていた部分がありました。でも、本当はそうじゃない。一つひとつの制度が、その人やご家族の生活や人生につながっているんですよね。「会社をもっと良くしたい」「従業員の皆さんに安心して働いてもらいたい」。そのためには、中途半端な知識ではダメだと思いました。誰かを守れるくらいの知識を身につけなければいけない。そのために社労士になろうと、本気で決意したんです。今振り返っても、社労士を目指す原点は、間違いなくあの出来事でした。そこからは、本当に必死で勉強しました。
被災地の缶詰工場と、一人の社労士。テレビで知った「社労士の本当の存在意義」
―― そこから、本気で社労士を目指すことを決められたんですね。仕事をしながらの受験勉強は、かなり大変だったのではないですか?
高橋 大変でしたね。結局、合格するまでに3年かかりました。本格的に資格学校にも通い始めて、仕事が終われば勉強、休日も勉強という毎日でした。忘れもしないのが、初めて受験した2011年です。ちょうど東日本大震災があった年でした。あの頃は、本当に朝から晩まで仕事をして、帰宅したらまた机に向かう生活でした。毎日、必死に勉強を続けていたので、心も体もすっかり疲れ切っていたんです。ある日、「今日はもう限界だな。たまには勉強を休んで、テレビでも見よう」と思って、何気なくテレビをつけたんですよ。
―― どんな番組が流れていたのですか?
高橋 NHKのドキュメンタリー番組だったんですけど、津波の被害を受けた缶詰工場が取り上げられていたんです。工場の中は泥だらけで、商品だった缶詰がそこら中に転がっていました。その工場の社長さんが、「これでは営業もできない。でも、従業員をたくさん抱えているし、給料も払わなければいけない。これから一体、どうしたらいいんだ……」と、本当に途方に暮れていたんですよ。画面越しにも、その絶望感が伝わってくるようでした。
―― 震災直後の、本当に過酷な状況ですね。
高橋 そうなんです。途方に暮れているその社長さんのところへ、一人の社労士の先生がやって来たんです。当時の僕は、社労士という仕事については名前を知っている程度で、先生が話している内容は何となく分かるものの、詳しい制度のことまでは理解していませんでした。ただ、「この人は会社や従業員を助ける仕事をしているんだ」ということだけは強く伝わってきたんですよね。後になって、「あの時、先生が話していたのは雇用調整助成金だったんだ」と知りました。その先生は、「社長、大丈夫です。こういう時でも従業員の皆さんの雇用を守る方法があります。一緒に頑張りましょう」と社長さんに声をかけていました。泥だらけの工場で、不安でいっぱいだった社長さんの肩に手を添えて励ます姿が、本当に印象的だったんです。
―― 雇用を守るための助成金ですか。
高橋 ええ。それを見た瞬間、本当に体に電流が走ったような衝撃を受けました。「えっ、社労士って、こんな仕事をする人なんだ!」って。それまでの僕は、社労士といえば「就業規則を法律に合わせて作る人」とか、「社会保険の手続きを代行する人」というイメージしか持っていなかったんです。正直、書類を作る仕事という印象でした。でも、テレビの向こうにいた社労士の先生は、まったく違いました。会社が本当に苦しい状況に陥った時、従業員の皆さんの生活が危うくなった時に、法律や制度を活用して、会社とそこで働く人たちを支えていたんです。「社労士って、こんなにも人の人生に関わる仕事なんだ。」その瞬間、社労士という仕事の見え方が、180度変わりました。
―― 高橋さんが衝撃を受けた理由が分かる気がします。社労士って、書類を作る仕事ではなく、困っている人を支える仕事なんですね。
高橋 そうなんです。あの時、自然とこう思ったんですよね。「当時勤めていた会社だったら、別に僕が社労士じゃなくても、誰かが制度を調べて申請すれば何とかなるかもしれない。でも、世の中には、その制度を知らないだけで困っている会社や、助けを必要としている人が、きっとたくさんいるんだろうな」って。だったら、自分も資格を取って、そんな人たちの力になりたい。困っている会社や、そこで働く従業員の皆さんを守れるような社労士になりたいって、本気で思ったんです。それに、僕たちが住んでいる東海地方も、いつ南海トラフ地震が起きるか分かりませんよね。「もし同じようなことが起きた時は、自分がその会社へ行って、『大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう』って言える社労士になりたい。」そんなことまで考えるようになりました。あのドキュメンタリーを見たことが、僕にとって社労士としての「志」の原点ですし、今振り返ると、お客様や従業員のために何ができるかを考える、今の自分の「利他の精神」の原点にもなっているんだと思います。
内定通知書が無言で送り返されてきた。人間不信の先で気づいた「本当の信頼関係」
―― 前職では、人との関わり方が大きく変わる出来事があったと伺いました。
高橋 ある日突然、上司から「社長が新卒採用をやりたいと言っているんだ。もう10年近くやっていないけど、高橋くんに担当を任せたいんだ」って言われたんですよ。「えっ、僕がですか?」って、本当にびっくりしました(笑)。実は僕、広く浅く人と付き合うのが得意なタイプではないんです。だから当時は、大勢の学生と関わる採用の仕事に戸惑いがありました。だから、「採用なんて自分にできるのかな……」っていうのが正直な気持ちでした。でも、その新卒採用を経験したことで、人との向き合い方や信頼関係の大切さを学ぶことになったんです。そして36歳くらいの時に社労士試験に合格しました。ただ、その時はすぐに独立したわけではなく、その後もしばらくは前職の会社で経験を積んでいました。
―― 今の高橋さんからは想像できませんが、人付き合いが得意ではなかったんですね。それで新卒採用とは、かなり大きな挑戦でしたね。
高橋 そうなんですよ。だから当時は、「できるだけ学生と直接会わずに、どうやったら効率よく採用できるか」っていうことばかり考えていました。当時は、就職情報サイトが広く使われ始めた時期で、とにかくサイト経由で学生を集めようとしていたんです。ところが、現実は全然そんなに甘くなくて(笑)。エントリーはしてくれるんですけど、途中から連絡が取れなくなったり、面接をドタキャンされたりして、どんどん辞退されてしまうんですよ。
―― 就活生との温度感が上手く噛み合わなかったのですね。
高橋 そうなんです。それで、一番ショックだった出来事がありました。ある学生に内定を出したんです。面接では、「本当に御社に入りたいです!頑張ります!」って、あれだけ熱く話してくれていたんですよ。だから当然、入社してくれるものだと思っていました。ところが数日後、その学生に送った内定通知書が、何の連絡も、手紙一枚も入っていないまま、書留で会社に送り返されてきたんです。
―― ええ……何の文面も添えられずに、書類だけが戻ってきたのですか。
高橋 そうなんですよ。本当に、封筒の中には内定通知書だけが入っていて、何の手紙も、ひと言の連絡もなかったんです。「あんなに『御社に入りたいです!』って言ってくれてたのに……」って、本当にショックでしたね。一時期は、「やっぱり人って信じられないな……」って、人間不信になりかけました。でも、しばらくしてから冷静になって考えたんです。「待てよ。なんでこんなことになったんだろう。」「どうして学生は途中で連絡が取れなくなったり、こんな断り方をしたりするんだろう。」って。そうやって振り返ってみた時に、ハッとしたんですよ。「俺は、人と向き合うことを避けていただけじゃないか。」人と接するのが得意じゃないから、いかに直接会わずに、システムで効率よく採用するかばかり考えていた。でも、それじゃ相手は「学生」ではなく、ただの「応募者」というデータになってしまう。ちゃんと一人の『人』として向き合えていなかったんだな。そのことに、初めて気付いたんです。
――システムや効率ばかりを重視して、一人ひとりとしっかり向き合えていなかった、ということですね。
高橋 その通りです。「結局、自分が人と向き合うことから逃げていただけだったんだな」って思ったんですよ。システムばかりに頼って、効率ばかり追いかけて、一番大事な「人」を見ていなかったんですよね。「このままじゃダメだな。仕事も面白くなくなるし、会社のためにもならない。」そう思って、そこから考え方を180度変えました。人付き合いが得意じゃないなんて言い訳をしている場合じゃない。ちゃんと相手と向き合おう。そう決めたんです。
―― 具体的にはどのような行動を起こしたのですか?
高橋 そこで思い切って、知り合いの人事担当の方にお願いして、企業の採用担当者や大学のキャリアセンターの職員さんが集まる、非公式の飲み会に連れて行ってもらったんです。当時の僕からすると、それはものすごく勇気がいることでした。人付き合いがあまり得意じゃない僕が、50人くらい知らない人ばかりいるアウェイな場所に、一人で飛び込んでいったんですから(笑)でも、皆さん本当に温かく迎えてくださって。大学のキャリアセンターの方々とも、「最近の学生さんはどんな感じですか?」なんて、本音で話せる関係が少しずつできていったんです。そうしたら、不思議なくらい採用がうまく回り始めたんですよ。
―― 採用のやり方だけではなく、人との向き合い方そのものが変わったんですね。
高橋 若手経営者の団体でも、ご縁があって本当にたくさんの方と出会いました。その中で、私は入会審査を担当する委員会に配属されたんです。入会審査では、「この方は本当にこの会にふさわしいか」を真剣に面接し、判断するという、とても責任の重い役割でした。その濃い時間を一緒に過ごしたことで、委員会のメンバーとは仕事だけではなく、人として深い信頼関係を築くことができました。だから今も、「たくさんの人と出会うこと」よりも、「目の前の一人と本気で向き合うこと」を大切にしています。結局、信頼というのは、その積み重ねの先に生まれるものだと思うんです。
資格の有無なんてどうでもいい。私たちが目指す「Make a Fan」の未来
―― そして37歳となる2015年、いよいよ独立され、「ゆたか社労士事務所」を設立されます。独立当初は、どんなスタートだったのでしょうか。
高橋 最初の1年目は、本当に悲惨でしたよ(笑)。年間の売上が200万円くらいしかなくて、「これ、本当に食べていけるのかな……」って、本気で焦っていました。でも、そんな時に支えになったのが、独立前から所属していた若手経営者の団体で出会った大先輩との約束だったんです。僕がまだサラリーマンだった頃、その先輩から「お前の将来の夢は何だ?」と聞かれたことがあって。「いつか独立して、自分の力で経営者のお役に立てる仕事がしたいと思っています。」と話したら、その先輩がこう言ってくれたんです。「いい夢だな。お前が独立したら、俺が最初のお客さんになってやる。」その言葉を、ずっと覚えていてくれていたんですよ。
―― 素敵な先輩ですね。それを覚えていてくださったのですか?
高橋 はい。本当に約束を守ってくれたんです。独立する時、ほとんどの方には案内状を郵送でお送りしました。でも、その先輩だけには、どうしても直接お会いしてお渡ししたかったんです。ところが、お互い忙しくてなかなか予定が合わなくて……。やっとお会いできたので、案内状を持ってご挨拶に伺ったんです。そうしたら、「お前、独立するのに案内状だけ持ってきたのか!提案書はないのか!早く作って持ってこい!」って怒られましてね(笑)。慌てて提案書を作って持っていったら、「これじゃ内容がよく分からん。もう一回作り直してこい!」と、また怒られて(笑)。必死に作り直してもう一度持っていくと、その先輩がこう言ってくださったんです。「提案書の内容はまだよく分からんけど、俺はお前とした約束を覚えている。一番最初のお客さんになるって約束しただろ。」そう言って契約してくださったんです。それから11年経った今でも、第1号の顧問先として変わらずお付き合いを続けてくださっています。本当に感謝しかありません。
―― 創業当時を振り返ると、現在の姿は想像できましたか。
高橋 正直、全く想像していませんでした。当時は、一人で食べていくことで精一杯でしたからね。でも、本当にありがたいことに、目の前のお客様一社一社を大切にしてきた結果、ご紹介が増え、仲間も増えていきました。今では11名全員が正社員として一緒に働いてくれています。2017年には、現在の事務所へ移転しました。固定費が増えるので悩みましたが、今のビルのオーナーさんから「空室が出たけど、どう?」と声を掛けていただき、思い切って決断しました。その翌年には売上が約1,500万円となり、一人でやるには完全に限界でした。朝から晩まで働き詰めで、「このままじゃ倒れる」と思い、初めてスタッフを採用しました。振り返ると、あの時の決断が、今のゆたかパートナーズオフィスにつながる一番大きな転機だったと思います。
―― 組織が大きくなるにつれて、高橋さん自身の考え方や組織づくりで変わってきた部分はありますか?
高橋 ものすごく変わりましたね。当時は正社員がほとんどおらず、事務所もパートさん中心の体制でした。本当に皆さんによく支えていただいていました。ただ、事務所が大きくなるにつれて、「この体制では難しいな」と感じるようになったんです。繁忙期になると仕事が一気に増えますが、パートさんは勤務時間がありますから、どうしてもその後の対応は正社員に集中してしまうんですね。そこで、「本当にお客様に寄り添う会社をつくるには、全員が同じ目線で責任を持って働ける組織にしたい」と考えて、少しずつ全員正社員の体制へ移行していきました。
―― これまでのお話を伺っていると、「目の前の一人を大切にする」という姿勢が一貫しているように感じました。それが「Make a Fan」という言葉につながっているのでしょうか。
高橋 うちの事務所って、一般的な社労士事務所とは少し考え方が違うんです。スタッフにもよく言うんですが、「社労士の資格を持っているからといって、先生扱いされると思うなよ」と。資格はあくまでも一つの武器に過ぎません。本当に大切なのは、お客様から信頼されて、「あなただからお願いしたい」と言っていただけることです。知識や資格だけでは、お客様はファンにはなっていただけません。だからこそ、私たちは「Make a Fan」を合言葉にしています。一人ひとりのお客様に寄り添い、「この人にお願いしてよかった」と思っていただけるようなホスピタリティを、何よりも大切にしているんです。
―― ホスピタリティを大切にするという考え方は素晴らしいですね。ただ、それをスタッフの皆さんに落とし込むのは、簡単ではないように思います。
高橋 そうなんですよ。「ホスピタリティを大切にしよう」って言うだけでは、みんな何をすればいいのか分からないじゃないですか。だから、今度の新しい期からは、創業前に作った経営理念をもう一度みんなで学び直す「経営理念研修」を始めようと思っています。外部の講師にも入ってもらって、理念を言葉だけじゃなく、行動につなげられるようにしたいんです。実は、この経営理念は創業する前に作ったものなんですよ。「将来、会社が大きくなっても、お金を稼げるようになっても、初心だけは絶対に忘れないようにしよう」と思って作りました。だから、理念には利益を出すことなんて一言も書いてありません(笑)。お客様や仲間、社会のために何ができるか。そんな利他の思いを一番大切にしているんです。
―― 会社が成長しても、初心を見失わないための道しるべだったんですね。
高橋 ええ。お客様から相談や困りごとがあった時に、「ゆたかオフィスだったら、どこまで相手の立場に立って考えるだろう?」と、一人ひとりが自分で判断して行動できるようになること。それが、うちの考える本当のホスピタリティであり、「Make a Fan」なんです。正直、これまでは僕が先を走りすぎて、みんなを置いていってしまうこともありました(笑)。でも、全員正社員の体制になって組織も固まってきたので、これからは「本当のホスピタリティとは何か」を、みんなにじっくり伝えていけるステージに入ったと思っています。
―― 素晴らしいですね。これからの未来に向けて、具体的なビジョンはありますか?
高橋 今、2035年頃を見据えた中期経営計画を立てています。目標は、売上3.5億円、メンバー24名くらいの組織です。でも、本当に目指しているのは数字ではありません。各地域のお客様の近くにはコンサルタントがいて、名古屋には事務センターを置いて業務を集約する。そんな、それぞれが強みを発揮できる組織をつくりたいんです。将来的には東京にも拠点を出したいですし、北陸でのM&Aなども進めながら、一歩ずつ理想の形に近づいている実感があります。
―― 昔の「人付き合いがあまり得意ではない」とおっしゃっていた高橋さんからすると、本当に想像もできないような未来ですね。
高橋 本当にそうですよね(笑)。昔の自分が見たら、びっくりすると思います。でも、どんなに組織が大きくなっても、あの震災のドキュメンタリーを見て、「制度を知らないだけで困っている会社や人がいる。その力になりたい」と思った原点や、自分の無知で人を傷つけてしまったあの時の悔しさは、これからも絶対に忘れません。だから私は、社労士という資格にとどまるのではなく、お客様にとって一番身近な経営のパートナーであり続けたいと思っています。困った時に真っ先に思い出していただける存在として、これからも一社一社に寄り添い続けていきたいですね。

自分の無知を悔やんだ日。震災のドキュメンタリーを見て、「困っている人の力になりたい」と心に決めた日。そして、人と向き合うことに悩みながらも歩み続けてきた日々。そのすべてが、社労士・高橋豊と、ゆたかパートナーズオフィスの原点になっている。「困った時に、まず思い出してもらえる存在でありたい。」その想いは、これからも変わることなく、一社一社の未来に寄り添い続けていく。
この記事を書いた人
宗宮彰良
ツムログ副編集長。2012年に新卒でアクセスに入社し中小企業の社長のお悩みを500社以上サポート。採用の枠を超えたお悩み解決をモットーに月間50件の商談をさせていただいています。想いが強ければ採用はうまくいく。一緒に想いをかなえましょう。
営業
このライターの記事をもっと見る →他の記事を読む
「死ぬかもしれない」どん底から這い上がった経営者が作る、血の通ったビジネスのカタチ。
大学卒業後、「どうせやるなら形に残る仕事でトップを目指す」と業界最大手の住宅メーカーに入社し、店長や支店幹部まで歴任した松浦代表。順風満帆に見えるキャリアの裏には、入社6年目で過労で倒れ、「胃がんで死ぬかもしれない」と本 […]
「ガチガチの目標なんてなくていい」。パン愛ゼロから始まった、池下ベーカリーrico・安堂さんに学ぶ“ゆらゆら”働くヒント
ベーカリー「rico」のオーナーシェフである安堂航也さんのキャリアは、「人に合わせるのが苦手」という極めて個人的で、飾らない理由からスタートしています。 「この仕事で社会にどう貢献するか」「どんな自己実現を果たすか」。そ […]
取扱商品を絞り、無駄な仕事を削ぎ落す。「やめる経営」の裏にある、三代目社長の社員愛。
「最初は親父のいい車への憧れだった」「ズブズブの泥臭い営業が楽しかった」 そうあっけらかんと笑う山本社長。家業を継いでからは、カフスや扇子などの取扱商品を大胆にやめるなど一見ドライに見える「やめる経営」を断行してきました […]