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水野 大志氏
ミズノ株式会社
代表取締役社長
(みずの たいし)/1880年創業の美容ディーラー「ミズノ株式会社」の跡取りとして生まれる。高校卒業後、英語の専門学校へ進学。美容メーカー(ミルボン)での1年間の修行を経て、2004年に入社。三河支店での飛び込み営業を皮切りにトップセールスとして活躍し、2017年、30代前半の若さで代表取締役社長に就任。自らを「ボンボン」と笑い飛ばしつつも、厳しい時期の会社を牽引し、現在は海外展開など新たな挑戦を続けている。
1880年(明治13年)に創業し、名古屋の中心地である大須で代々続く美容ディーラー「ミズノ株式会社」。140年以上続く老舗企業の暖簾を背負う代表取締役社長の水野大志さんは、20代から営業の最前線で圧倒的な場数を踏み、30代前半という若さで業績低迷期の社長に就任すると、銀行からの冷ややかな視線を浴びる逆境をはねのけて会社を立て直してきました。綺麗な言葉や経営のフレームワークを並べるのではなく、「厳しい試練を乗り越えた経験こそが最大の財産になる」と語る水野社長の、飾らない人柄と熱を帯びたリアルな言葉をお届けします。
創業140年の重圧より、カルチャーの中心地で遊び尽くした青春時代
——創業時、もともとはどのような始まりだったのでしょうか。
水野社長(以下、水野):一番最初は1880年で、大須本町通りで土屋商店という名前で商売を始めており、まだ女性が髪を結っている明治の時代ですから、髪を結う時に使う身だしなみ油のような植物から抽出した油を代用して寄席の人たちに卸していたのがスタートだと聞いています。そこから女性の社会進出とともに美容そのものが成長していく中で、我々も現在の形である美容材料卸売業へと徐々に変化していきました。この本町通りの場所はずっと変わらず昔からここにありまして、家系を辿ると武士の流れもあって、言ってしまえば僕は完全なボンボンなんですよ。バカな社長だなと社員から思われるかもしれないけれど、事実なので隠してもしょうがないから最初に言っておきます(笑)。
——代々続く家業で、しかも名古屋の中心地という一等地となると、ご自身が将来家業を継ぐことへのプレッシャーのようなものは感じていなかったのでしょうか。
水野:それが全くなくて、もともと美容とかファッション、あるいはカルチャーにまつわるものが昔から大好きだったということが大きいですね。僕が高校生くらいの時に「カリスマ美容師」という言葉が出てきて美容業界がめちゃくちゃ盛り上がっていましたし、当時の大須や栄は若者ファッションのカルチャーが集約されていて、東京でいう原宿や裏原宿みたいな場所でしたからね。自分が将来関わる会社のビジネスがそういうカルチャーのど真ん中にあるのは、素直にラッキーだなという感覚しかありませんでした。
——経営者になることを見据えて、学生時代から将来家業に入るための準備をしっかりと真面目に取り組まれていたということなのでしょうか。
水野:いやいや、ここからは少し恥ずかしい話なんですが、経営の勉強どころかとにかく遊んでばかりのどうしようもない学生時代でしたよ。大学受験も完全に舐めきっていて、前日まで飲み会をして二日酔いのまま試験を受けに行って当然のように落ちてしまいましたからね。結局、英語が好きだったこともあって名古屋の英語の専門学校に進むことになったんですが、そこで今の妻とも出会ったので人生としては結果オーライですね。
「量が質を生む」高校時代のテレアポと泥臭い営業の下積み
——専門学校をご卒業された後、すぐに家業に入られたわけではないと思いますが、そこからどうやって現在の経営者としてのキャリアへと繋がっていったのでしょうか。
水野:専門学校を出た後、うちと取引のある美容メーカーのミルボンさんに入社し、1年間ほど社会人としての厳しい修行をさせてもらいました。新入社員研修で7ヶ月くらい寮に缶詰めにされて、夜な夜なカラーモデルを探すために外に出向いて色々な人に声をかけまくったりして。そこから21歳くらいの時にミズノに入社し、まずは岡崎にある三河支店でゼロからのスタートとして飛び込み営業などの泥臭い業務を任されました。その後は名古屋の本社に戻ってからも、現場の感覚を忘れないように、だいたい10年くらいはずっと営業の最前線で走り続けて数字を追いかけていましたね。
——2代目として歴史ある会社に入るとなると、既存の社員の方々や周囲からの厳しい見られ方などで、ご苦労された部分もあったのではないですか。
水野:世間的にもよくある話ですが、2代目ってだいたい現場の苦労を知らなくて、ポンコツで甘やかされていると思われがちじゃないですか。創業者がゼロからイチを作って、僕らはある程度会社も家庭も潤っている状態に生まれるから、その苦労を知らないというのはやっぱり弱みですよね。でも、自分が生まれ育った環境を今さら否定したところでどうしようもないから、とにかく結果を出してやるしかないと腹をくくっていました。それに、僕自身は営業に対しては昔からすごく自信があって、絶対に誰にも負けないという強い自負のようなものを持っていたんですよ。実は高校時代に、家庭教師の契約を取るテレアポと訪問営業のアルバイトをしていて、大学生と偽って営業に行き、高校生ながらに月10万円から15万円くらい稼いでいた実績がありましたから。
——高校生の段階でそれほどの圧倒的な営業成果を出されていて、すでにビジネスの感覚を掴んでいたというのは、正直言ってかなり驚きのエピソードですね。
水野:営業をやるにしても、10人喋った人と100人喋った人では、絶対に100人喋った人の方が上手くなるわけですから、やっぱり量が質を生むんですよ。ありがたいことに、僕は学生時代に栄で声をかけまくって、数え切れないほどたくさんの人とコミュニケーションを取ってきた経験があるんです。だから飛び込み営業なんかも全く抵抗がなかったですし、どうすれば相手が心を開いてくれるかという感覚が自然と身についていたんだと思います。美容室のオーナーさんたちと話す際も、単なる商品の売り込みではなく、どうやって会社を成長させるか、人材教育をどうするかといった深い経営の話をベースにコミュニケーションを取れるようになっていきました。
「いつか見返してやる」どん底の業績で迎えた逆境の社長就任
——2017年、30代前半という異例の若さでバトンを受け取り社長に就任されていますが、当時の会社はどのような状況だったのでしょうか。
水野:僕が父から社長のバトンを渡された30歳前後の時期は、正直に言って会社の業績が本当に悪くて、かなり厳しい状態だったんです。金融機関の方からもかなり厳しいことを言われましたし、よく「銀行は雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を貸す」なんて言われますけど、本当にその通りで。偉い人がわざわざ会社に来て、「ちょっと今の経営状況だと融資は厳しいですね」なんて冷ややかな言葉を直接投げかけられるわけですよ。あの時は社会に対してというか、もうとにかく悔しくて「いつか絶対に実力で見返してやる」と心の中でいつも闘志を燃やしていました。
——業績が低迷し、全く見通しが立たないようなその厳しい逆境を、トップに立つ経営者としてどのようにして乗り越えていかれたのでしょうか。
水野:とにかくガムシャラに自分自身が営業の最前線へ行って数字を作り、誰よりも行動して会社の成績を少しずつでも確実に上向かせていきました。毎年8月の決算申告に向けて圧倒的な成果を出し続けると、銀行の態度も手のひらを返したようにどんどん好意的に変わっていくんです。でも今振り返ってみると、会社の状態が一番悪い時期に社長としてのバトンを受け取れたのは、めちゃくちゃありがたいことだったなと思っています。これを気力も体力も衰えた高い年齢で迎えていたらキツかったかもしれないけれど、20代、30代の勢いがある若いうちに泥水をすするような経験ができたのは、僕にとって最大の財産です。
——業績が悪く周囲からのプレッシャーも大きい大変な時期に、心が折れてしまったり、すべてを投げ出して逃げ出したいと思ったりすることはなかったのでしょうか。
水野:その時はもちろん大変でしたけど、人間ってちゃんと成長して困難をクリアしていくと、当時大変だったエピソードも笑い話に変わるんですよ。業績が悪くて経費を抑えなきゃいけない時に、あえて腹をくくってキャバクラに行って派手にお金を使ってみたりして、自分自身を鼓舞していました。「こんだけお金を使って楽しんだからには絶対にやり切らなきゃいけない」という状況に自分を追い込んで、無理やりにでも覚悟を決めていたんです。綺麗な言葉を並べても、まずは自分が腹一杯食べて豊かにならなければ、社員に対して本当の豊かさを提供することなんて絶対にできないですから。まずは自分がしっかりと仕事をして稼いで、そこから社員たちにも還元していくんだという、経営者としての強い思いがありましたね。
承認欲求を捨て、自分のスタンダードで変わり続ける
——これほどの困難を乗り越えてきた水野社長の原動力は、一体どこにあるのでしょうか。周囲から評価されたいという思いがあるのでしょうか。
水野:「社長すごいですね」「努力されてますね」とおだてられることもありますけど、僕は自分のことを全くすごいと思っていないし、むしろ全然足りないと思っています。周囲の人間から見れば努力しているように見えるかもしれないけれど、僕からすれば息をするように当たり前のスタンダードとしてやっているだけなんです。他人の物差しで評価されたり褒められたりしても全く心に響かないですし、自分が心から納得できるレベルに到達していないと意味がないんですよ。学校なら成績表、会社なら売上という嘘をつけない結果が出るわけで、自分が成長して、会社が数字としてしっかり成長していくこと自体が、僕にとっての最大の喜びなんです。
——会社の外にいる他の経営者や同年代の人たちと自分を比べて、焦りを感じたり一喜一憂したりすることは全くないということなのですね。
水野:ええ、人と比べても意味がないと思っていますし、自分の人生や会社のあり方は、自分自身の基準で決めるものだという確固たる思いがあります。ただ、新しい情報を吸収したり自分をアップデートするために、若い人たちの話を積極的に聞くことは経営者としてすごく大切にしています。僕自身が喋るのは全体の1割くらいで、残りの9割はこれから時代を作っていく若い人たちの話を聞くべきだなって常に意識しているんです。同じ美容業界でもスタートアップのように物凄いスピードで店舗展開している若い人たちもいて、自分にはないものを持っているなと素直に尊敬します。価値観が違ってイラッとすることがあっても、実は自分の考えがすでにクラシックになっている可能性もありますから、謙虚に学ぶ姿勢は常に持っていたいと思っています。
——最後に、「このままでいいのかな」と今後のキャリアに漠然と悩んでいる若手読者に対して、何か伝えたいメッセージがあればお願いします。
水野:最近の若い人はコミュニケーションが苦手だと言われますが、それは単に失敗を恐れて経験や場数が圧倒的に足りていないだけだと思います。方法はなんであれ、人とたくさん話して失敗する経験を積まないとメンタルは強くなりません。営業で断られたからといって死ぬわけじゃないんだから、もっと色んな人とコミュニケーションの場数を踏んで、体当たりの経験をしてほしいですね。会社が安泰であり続ける保証なんてどこにもない時代だからこそ、社員が本気で挑戦してくれるなら、僕はそこに対して惜しみなくお金を使います。まだ40歳で経営者としての後半戦が始まったばかりなので、これからも事業に対して貪欲に情熱を持ち続けて、変化を楽しんでいきたいですね。

取材中、幾度となく「僕はボンボンだから」とあっけらかんと笑い飛ばす水野社長。しかし、その飾らない言葉の裏にあったのは、誰よりも過酷な現場を這いずり回り、逆境の中で己を奮い立たせてきた生々しいまでの「場数」の歴史でした。
私たちは日々働く中で、つい効率よく正解を求めたり、会社や他人の物差しで自分の価値を測ってしまいがちです。「このままでいいのかな」と足踏みしてモヤモヤしている時、水野社長のように「誰かに褒められるためではなく、自分のスタンダードで圧倒的な量をこなす」という真っ直ぐな姿勢こそが、働く意味を取り戻すヒントになるのだと感じました。
綺麗事だけでは語れない、人間臭くて体温の高い大人がトップで引っ張っているミズノ株式会社。失敗を恐れず、あえて泥水をすするような挑戦を楽しめる人にとって、これほど血の通った熱を帯びた環境はなかなか見つからないのではないでしょうか。
この記事を書いた人
小川藍
新卒2年目。大学での心理学の学びがきっかけで、「人の心を動かす」ことに興味を持ち、求人業界に飛び込む。「人と企業を結ぶ採用支援」に魅力を感じ日々営業活動中。「あなただから頼みたい」そう言っていただける営業を目指し、日々営業中。
営業
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