髙山 靖徳氏
フジ建設株式会社
代表取締役社長
高校卒業後、カナダへの語学留学を経て就職するも数ヶ月で退職。1995年頃、「食いつなぐため」に家業の土木・重機工事会社へアルバイト入社。現場作業から監督、総務全般を泥臭く経験し、32歳で社長就任。「金儲け」から「社会貢献といい会社づくり」へ舵を切る中で、古い職人が全員辞めるという組織の痛みも経験。現在は「災害大国日本を支える」というビジョンを掲げ、M&Aによる全国展開と業界のホワイト化に挑み続けている。
就職活動の面接や日々の仕事の中で、「自分には明確な夢がない」「このままでいいのだろうか」と思い悩む20代・30代は少なくありません。フジ建設株式会社の代表取締役社長である髙山氏も、かつては「とくに夢もやりたいこともなかった」と語る一人です。
高校卒業後、カナダへの語学留学という名目で遊び、帰国後に入社した会社は違和感があり数ヶ月で退職。当面の生活費を稼ぐために、父親が経営する土木工事の会社にアルバイトとして飛び込んだのが、現在のキャリアの始まりでした。
そこからいかにして、全国の被災地を救うためのM&A展開や、社員のための「いい会社づくり」へと本気で取り組む経営者になったのか。泥臭く歩んできた髙山社長の飾らない言葉には、私たちが「働く意味」を取り戻すための、熱を帯びたヒントが隠されていました。
——本日はよろしくお願いします。まずは、髙山社長がご実家の会社であるフジ建設に入社されるまでの経緯からお聞きしてもよろしいでしょうか。もともと学生時代から家業を継ぐつもりだったのですか。
髙山社長(以下、髙山):いえ、全然違いますよ。高校卒業して2年間カナダへ語学留学という名の遊びに行って、20歳で戻ってきて一般企業に就職したんです。でも、そこがちょっとうさんくさい営業会社で。Windowsが出始めの頃に、パソコンを使ったことがない学生に「ネットを繋げたら色々できますよ」って言って、10万円のパソコンで40万円くらいのローンを組ませて売るような仕事だったんですよ。これはいかんなと思って、数ヶ月でそこは辞めました。
——そこから、お父様が経営されていたフジ建設に入られたんですね。家業への思い入れがあったのでしょうか。
髙山:いや、辞めて就職先を探すにしてもお金がないから、とりあえず食いつなぐために親父に「ちょっとバイトで土方やらせてよ」って言って入ったのがスタートですね。別に家業をするつもりもなかったし、普通に違うことをやろうと思っていました。当時の会社は10人から15人くらいの規模で、私は重機にも乗れないしダンプの免許もないから、ひたすら現場で土方の手元作業です。でも、土方は人を騙さないじゃないですか。しんどいけど、汗をずっと垂らして働いて、現場に出て解体したらお客さんに喜んでもらえる。人を騙すような仕事は嫌だなと思っていたから、いい商売なんだなとは思いましたね。
——その頃は、お給料やお休みなどの待遇面はどうだったんですか。
髙山:めちゃくちゃ安く使われていましたよ。残業込み、休日出勤込みで、ひどいと1月の連休明けから3月末まで休みゼロで月給20万円とか。そんな時代が5年以上は続いたんじゃないかな。そこから22、3歳で現場監督をやるようになって、25歳くらいからは中のこともやり始めました。銀行との話や求人、総務や営業など、とにかく全部やるような感じですね。
——25歳でそこまで任されるようになると、「この会社でやっていくんだ」という覚悟みたいなものが出てきたタイミングだったんでしょうか。
髙山:覚悟したかはわからないけど、なんとなくずっとやっていくんだろうなっていう感じでしたね。ほかにやりたい夢があって「こういうことやりたい」があれば別だけど、ないんだったら別にどこで働いても一緒じゃないですか。そこでコロコロ転職して一から信用を築いて振り出しに戻るよりは、その経験を生かした方がいいから。だから、25歳くらいから転職を考えたことは一回もないですね。今は若い子たちが「やりがい」とか色々考えているみたいだけど、その頃はそんな深く考えていなかったです。
「金儲け」から「いい会社」へ。孤独と葛藤の社風改革
——そこから32歳で社長に就任されたとのことですが、そのタイミングで「会社をこう変えていきたい」といった思いはあったのですか。
髙山:25歳の頃から、面接から何から全部やっていたから、32歳で社長になった時に増えた業務はゼロで、肩書きが変わっただけでしたね。ただ、当時の社風はめちゃくちゃ悪かったんですよ。職人の人たちもヤンチャな人が多くて、飲み会では乱闘になるし、お店は出禁になるし、警察は来るしで。でもこちらも金を稼ぐためだから、人が悪くても腕があればいいじゃんという感じでやっていて、いい会社ではなかったですね。
——そこから、社風を変えていこうと思ったきっかけは何だったのでしょう。
髙山:39歳の時に会社を分社化して、親父と弟の会社とで3つに分けたんです。その時、職人たちには好きな会社に行っていいよと伝えました。弟や親父と別々になったから、人のせいにしていた部分がなくなって「これで勝手にいい会社になるだろう」と思っていたんです。でも1年経っても意外といい会社にならなくて。いよいよ人のせいにする人がいなくなったから、「ああ、会社が良くならないのは俺のせいなんだな」と気がつきました。そこから経営の勉強を始めて、金儲けは目的ではなく世の中に貢献した対価としてもらっている手段なんだとようやくわかって、とにかく「いい会社」にしたいなと思うようになったんです。
——社長が「いい会社にしよう」と舵を切った時、もともといた職人さんたちの反応はどうだったんですか。
髙山:それまで「お前ら金払ってんだから文句言わずにやれよ」と言ってきた手前、急に「いい会社にしようぜ」と言っても誰もついてきませんでした。自分一人の力じゃいい会社にならないなと思って、周りの同級生や後輩で中小企業の後継ぎをやっているような連中に「俺の会社をいい会社にしたいから、お前会社畳んでこい」と声をかけて回ったんです。それで本当に4、5人が入社してくれて、一緒に会社づくりをやり始めました。
——ご友人に会社を畳ませてまで引き入れるとは、すごい熱量ですね。でも、新しく入ってきた方々と昔からの職人さんたちとで、衝突や混乱は起きなかったのですか。
髙山:起きましたよ。いい会社にするためには、あらゆる意思決定の基準を「いい会社にするためにはどうするか」に変えなきゃいけない。現場を回すためには指示を出す職長が必要で、今までは人間性が悪くても目をつぶっていたけれど、いい会社にする方向へ寄っていかない人は外すしかないんです。現場が回らなくなって売上が落ちても、もうおらん方がいいわとなって、結局、当時の癖の悪かった職人は全員辞めました。でも、そこからだんだんと本当にいい人が入ってくるようになって、3年くらいかけて会社が丸ごと入れ替わっていったんです。
「災害大国日本を支える」。損得勘定を超えた大人の挑戦
——そこから社風も良くなり、現在はさらにM&Aで全国展開を進められていますが、どのような背景があったのでしょうか。
髙山:いい会社にはなったけれど、そのまま小さい会社で終わっていいのかという話になって、拡大路線に行こうと決めたんです。でも、ただ単に大きくするだけの膨張にはあまり意味を見いだせなくて。そんな時でした、能登半島で地震が起こってしまったんです。名古屋では解体業者の競争が激しくて、うちが潰れても他のお客さんは困らない状況なんですが、被災地では解体が全然進まずに困っている。意味のないところで一生懸命パイの奪い合いをしていても誰も喜ばないから、どうせ仕事をするなら世の中に貢献した方がいい。そこから「災害大国日本を支える」というビジョンに行き着きました。
——なるほど。全国各地にグループ会社があれば、いざという時に現地の復興を支えられるということですね。
髙山:そうです。どこかで災害が起きた時に、被害を受けていない地域の会社から応援に行って、復旧復興に携わることができる。だから今は、全国各地でM&Aを進めようとしていて、北海道から大阪、仙台まで、ご縁があったところからどんどん広げていこうとしています。全然違う社風の会社を巻き込むのは本当に大変ですし、正直、遠いところは管理もしにくいからあまり行きたくない気持ちもあるんですけどね。
——それでも進められているのはなぜですか。名駅(名古屋駅)に新しく立派なオフィスを出されたのも、その決意の表れなのでしょうか。
髙山:名駅のオフィスは年間ものすごい費用がかかるし、純利益が減るだけだから、本当は出さない方がいいんですよ。でも、基本的に人間が意思決定をする時って、51対49で「51」の方を選ぶわけじゃないですか。49はやめといたほうがいいと思いながらも決断する。だからこそ、ちょっとした気分で49と51が逆転して辞めちゃうことがないように、高い経費をかけて退路を断っているんです。費用を見れば前に進まざるを得なくなりますからね。自分で自分の首を絞めているようなものですが、そこまでしないとやりきれないですから。
何かに執着しなくてもいい。やったことのないことをやり続ける人生
——最後に、今の20代や30代の若手ビジネスパーソンの中には、「自分には明確な目標がない」「このままでいいのか」と悩んでいる人も多いと思います。髙山社長から何かメッセージをいただけますでしょうか。
髙山:人生1回きりだからね。1個のことだけに執着するのもいいけど、私は知らない世界をできるだけちょっとでも知って死にたいというか。だから、やったことのないことが好きで、新しいことをとにかくやりたがるんです。その結果、トライアスロンをやってみたり、フルマラソンを走ってみたり。全然面白くないなと思いながらも、とりあえず年1回は大会に出ています。旅行も行ったことのない場所に行くし、ご飯も食べたことのないお店に行きたいなって。
——何事も、まずはやってみるということですね。
髙山:50歳になると65歳の引退まであと15年くらいしかないですからね。若い人たちはこれからいろんな経験ができるけど、やれることが体力的にどんどん減っていくから。1個の本当にハマるものが見つかればそれに没頭したいですけど、今のところ何も見つからないから、とりあえず全部やってみるんです。色々なことにチャレンジすれば引き出しが増えて、誰とでも会話ができるようになりますから。
——とりあえずやってみないと、何が自分に合うかわからないですもんね。
髙山:そうそう。昔は無駄な時間をいっぱい過ごしてきたけど、もう一回戻ってもまた無駄な時間を過ごすと思いますよ。無駄が楽しいっていうのもありますしね。私はもともとリーダーシップがあったわけじゃなくて、この業界でやっていくために後天的に身につけたキャラクターなんです。だから、立派な夢がなくても、とりあえず目の前のやったことのないことに手を出してみればいいんじゃないかなと思います。

「やりがい」なんて言葉すらなかった20代の泥臭い日々の積み重ねが、やがて「いい会社を作りたい」「社会を支えたい」という大きな熱量へと変わっていく。経営者のインタビューといえば、立派なビジョンや揺るぎない信念からスタートする物語を想像しがちですが、髙山社長の口から語られたのは、最初から用意された綺麗なサクセスストーリーではなく、迷いながらも51%の思いで自分を奮い立たせ、退路を断って進んできた大人のリアルな生き様でした。
「本当にやりたいこと」なんて、そう簡単に見つかるものではないのかもしれません。だからこそ、焦って一つの正解を探すのではなく、まずは目の前の仕事に向き合ってみる。あるいは、帰り道にいつもと違う角を曲がってみる、食べたことのないメニューを頼んでみる。そんな些細な「やったことのないこと」の積み重ねが、少しずつ自分の世界を広げ、いつか振り返ったときに確かなキャリアの道筋になっているはずです。「このままでいいのかな」と立ち止まりそうになったら、まずは小さくても未経験の何かに手を出してみる。そこから、また新しい仕事の面白さが見えてくるのかもしれません。
この記事を書いた人
河本さゆり
中途入社6年目。前職の保険営業で培った寄り添う姿勢を大切にしています。社長との対話から企業に眠る「まだ知られていない魅力」を丁寧にすくい上げ、求人票には載っていない「リアルな社風」や「トップの熱意」をどんどん引き出します。仕事探しに役立つ記事をお届けし、皆さんの最高の出会いを全力で応援します!
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