「朝日が昇る瞬間が、一番寒い。」世間知らずの21歳が無断欠勤を乗り越えてトップセールスを掴むまで

「朝日が昇る瞬間が、一番寒い。」世間知らずの21歳が無断欠勤を乗り越えてトップセールスを掴むまで

津曲 修一郎 氏

津曲 修一郎 氏

株式会社アクセス

代表取締役会長

つまがり・しゅういちろう/リクルート情報出版で営業を経験したのち、個人で創業。1990年4月株式会社アクセスを創業、代表取締役社長に就任。2022年に代表取締役会長。また、株式会社未来企画が2017年に合併し、クレドホールディングス株式会社を設立、代表取締役社長を務める。

「2万人に1人、社員になれるよ」

 

説明会でそんな話を聞いた時、当時21歳の津曲さんは漠然とこう思っていました。

 

「アルバイトで入っても社員になるチャンスもあるんだ。俺は絶対社員になるぞ」

 

そう決意して飛び込んだ先は、想像を超える猛者たちが集まる場所でした。今や株式会社アクセスの代表取締役会長を務める津曲さん。しかしその原点は、ピカピカの学歴や華々しいキャリアとは程遠い、世間の広さを何も知らなかった一人の若者の、泥臭い這い上がりのストーリーでした。アクセス創業前夜、のちに会長となる男が過ごした「一番寒かった時期」と、そこから這い上がったリアルな語りをお届けします。

 

「こいつらは何なんだ」圧倒的な同期を前に、1ヶ月で逃げ出したくなったあの日

——リクルートにはアルバイトから入社されたそうですね。

 

「そう、アルバイト。ただ入社のタイミングが4月3日入社で、新卒の社員さんと一緒に研修を受けられたのはすごく運が良かったです。」

 

「入ってみたら本当に優秀な人ばかりでね。名古屋の大学だと名大と南山と名工大とかそういうクラスの子たちしかいなかったですね。お酒を飲んでも本当に面白い連中で、顔もいいし、楽しいし。そんなすごい同期がいても、一緒に仕事していって『この子たちに勝ちたい』っていうのは当然あるじゃないですか。だけど、仕事を始めて1ヶ月、3ヶ月経っても、とても勝ち目はないな、みたいな」

 

——そんなに圧倒的な実力差を感じたのですか。

 

「本当にすごい子たちだった。小牧中学の生徒会長が成績オール5でめちゃかっこよくって大人気者でした。僕もそこそこ人気はあって生徒会やってましたけど、この同級生にだけは絶対勝てないっていう、僕にとって圧倒的な存在がいたんです。全員がその同級生のように見えました。」

 

「仕事を始めて1ヶ月くらい経ったときに無断欠勤して『もう辞める』って逃げ出したことがありました」

 

——そこからどうやって、もう一度前を向いたのでしょうか。

 

「先輩や事務のお姉さん、制作のお姉さん、周りの人たちから『しゅうちゃん頑張ろうよ』と声かけていただいて。そのおかげで乗り越えられたんです。」

 

「上司の谷口さんに僕が『トップセールスになりたいんです』と話したら『毎日テレアポ100件毎日飛び込み100件。とりあえず1年やりなさい』と言ってくれたんです。『わかりました。そんな簡単なことでいいなら、やります』と、1年それをやりきったんですよね」

 

——毎日テレアポ100件、飛び込み100件。言うのは簡単ですがすごい行動量です。

 

「初受注も一番遅く、月目標の達成も一番遅かった。けど、結果的に行動目標をきっちりとやり続けたことで、半年後から急に成果が出たんですよ。入社から1年経ったときの新人賞は私が獲ることができました。」

 

「営業の世界は、学歴とか育ちとかも大事だけど、自分が決めたことをやりきることが成果が繋がることを1年間で学びました。さらにレベルを上げて、トップセールスへの道、として頑張らせてもらったんですね」

 

——周りがどんどん初受注を決めて、自分だけが残されていたときは本当に苦しかったですよね。

 

「自分だけできてなくて、『この会社にはついていけない、辞めよう』と追い詰められました。だからこそ谷口さんのその言葉にしかすがるものがなかった。そこまで落ちたんですよ。」

 

「だけど、そこにはやっぱり必ず光が来るというか。もうダメだ、っていうときが流れが変わる瞬間なんですよね。朝日が昇る瞬間が一番寒いんです。だから一番寒いときは、その悩みから吹っ切れる直前。そこで逃げたら、人生たぶんずっとそういうことになる。これは今の社員さんにも伝えたい、一番大事なところです」

 

「人はなぜ働くのか」引きこもり生活から突然降りてきた、生きることの意味

——リクルートに入る前は、魚屋さんを目指されていたと伺いました。

 

「実はね、魚屋が夢だったんですよ。商店街にある個人の魚屋さんで高校時代の2年間バイトしていて。その大将がすごい気風のいい人で、当時時給500円の時代に1日働くと8,000円とか1万円をくれた。仕事はめちゃめちゃハードだったけど、魚屋がかっこいいなと思って、大学行かずに『魚屋になります』って宣言したんです。」

 

「大将に相談したら『市場行って勉強してこい』と言われて、3年間、朝の2時に起きて市場で働いていました。4トントラックで競りで魚落として、帰りのトラックの中でいくらで仕入れたからいくらで売るっていうのを先輩と決めて、魚屋さんにダーっと売り切る。そういう仕事をずっと一生懸命やっていました」

 

——そこから、なぜリクルートの門を叩くことになったのでしょうか。

 

「一生懸命やっていたんですけど、21歳で突然『人はなぜ生きるのか』っていう、中学や高校のときからの疑問にまたぶつかってね。その先にある『人はなぜ働くのか』っていう疑問にぶつかるんですよ。」

 

「そこで『じゃあ働かずに生きていこう』という結論になって。一時的に仕事を辞めて、自由に過ごす道を選んだんです。魚屋の給料よりは少し稼げるようなことをしながら、働かない道を探っていた時期がありました」

 

——「働かない道」を模索した先に、何があったのですか。

 

「そんな生活を半年くらいして、ある日ふと、自分の周りを見回してみたんです。親父から『自分で自分のことはわからんけど、友達を見たら自分のことがわかるよ』と言われていて、当時の私の周りには、少し生活に疲れた人たちや、どこか風変わりな人ばかりで、医者も弁護士も総理大臣もいませんでした。」

 

「『なんだこれ。俺もひょっとしたらそういう人なの?』と思った瞬間、嫌だ嫌だ嫌だ、となって。うつ病みたいになって、1ヶ月くらい小牧の家の部屋に引きこもってしまったんです」

 

——深い葛藤の時期を過ごされたのですね。

 

「1ヶ月経ったときに、家の前を走ってる高速道路を見て『あの高速道路、誰が作ったんだろう』って突然思ったんです。自分が住んどる家も、パジャマも、ベッドも、ご飯も、全部誰かが働いてくれたことで使うことができている。生きることと呼吸することが同じように、働くことは、社会が動いている何かの役割の1つを自分が担当している、自分が生きているのは誰かが働いてくれているおかげだから、働くか働かないかって迷うことではないんだ、と。『生きることイコール働くことなんだ』っていうのが、その瞬間に突然降りてきたんですよ」

 

——そこで、すぐに仕事を探し始めたのですか。

 

「『働きたい』と思って就職情報を100円で買ってきて、バーっと見て。一番最後のページに、リクルートの求人が出ていて、そこのキャッチが『働きながら社会勉強ができます』だったんです。」

 

「自分が本当に世の中のことをわかってないな、と思っていたなか、たまたまその言葉があったので、『あ、この会社だ』となって。会社としてのグループの繋がりすらよくわからないまま、すぐに受けに行きました。それくらい、本当に世間知らずでしたね」

 

「教えてもらっただけ」の積み重ねが、いつの間にか自分を助けていた

——リクルートへ入社してからは、ご自身の感覚と仕事がピタッと合致したそうですね。

 

「社会勉強をさせていただくことと新規開拓営業が、自分にとってはピタッと当てはまりました。100件回ると10件くらいは話を聞かせてくれるんですよ。いきなり行って『お宅の会社何やってるんですか』とか質問すると、『お前、そんなことも勉強せずにうちに来たんか』って怒られながらも、黒板を使って『うちの会社はな、こうなっててな』って講義をしてくれる社長さんや部長さんが結構いてね。」

 

「それをずっとやり続けると、別の同業他社に行ったときに『あ、同じ話を聞いたことあります。先月、株式会社何とかさんにお邪魔して、こういう話を聞きました』って言えるようになる。すると『お前、何とかさん知っとるんか。あの部長に会ったんか、お前すげえな』って、自分からは何も喋ってないのに、他で教えてもらった知識のおかげで自然と信頼が広がっていくんですよ」

 

——一見無駄に見える飛び込みの行動が、地続きで繋がっていったと。

 

「途中で嫌になった時期もあるんですけど、やっぱりそういうことが起きてくる。1年経って、入ってきた新卒やアルバイトの子たちが営業に回ると、もうそのときには名古屋市内で僕の名刺のないエリアは1個もなくって。1年後輩がどこを回っても『津曲さんってどういう人ですか』と聞かれる。全然違う営業所の新人から『どこ行っても津曲さんの名刺があって、津曲って人は面白いと言われる、どうなっとるんですか』と電話がかかってくる。それはやっぱり、嬉しいじゃないですか」

 

——営業としての自信を深めていく中で、3年目にぶつかった壁は大きかったそうですね。

 

「メンバーを持たせていただいて、新卒の女の子を預かったんです。そしたら、その子が部長のところに『あの人のもとでは働けません』って泣きつきにいって(笑)」

 

「『俺の背中を見て育て』みたいな感じだったんで丁寧に教えなかったんですよ。自分は100件やるのが当たり前だから彼女が『今日は81件しかできませんでした』と6時に帰ってきたら、『もう一回今から行ってこい』と。そりゃあ嫌になりますよね。上司に呼び出されて伝えられた瞬間、涙がブワーって出てきましたね。悔しくてね」

 

——ご自身のルーツである「毎日100件」を相手にも求めてしまったのですね。

 

「そう。同じことを伝えるにしても、やっぱり愛着を持って、相手が理解できるような言葉を選んでお伝えしないといけないんだな、というのはものすごく勉強させてもらいましたね」

 

東急ホテル、ヒルトン、パルコ……。名古屋の街が動く、その真ん中にいた

——その後、東海地区のリクルート現地法人の立ち上げに社員として参画され、新規開拓を続けられました。当時、かなり印象的なお仕事を数多く手がけられたとか。

 

「東海リクルート企画のオープニングスタッフとして行かせてもらって、そこでも全部新規開拓をずっとやって、メンバーを育てていました。ちょうどその頃、名古屋の街が大きく動く時期でね。東急ホテルの準備室の求人を全部もらったり、ヒルトンができたときもその求人を全部やったり。パルコもその頃できたんですけど、オープニング求人を全部やりました。とにかく自分で全部行って回る、そういう話題になる仕事がやりたかったし、すごく面白かったですね」

 

——ご自身で「独立すること」は以前から決めていたのですか。

 

「自分で商売をやるっていうのは、小学校の時から決めていました。歌手とか、シュークリーム屋さんとか、魚屋さんとか、夢は変わっていったけれど、自分で商売をやるっていうことだけはブレずに文集にも残っていました」

 

「リクルートで4年半お世話になって、いろんな会社の取材をさせてもらったんですけど、やっぱり求人の仕事が世の中で一番面白い仕事だなって確信したんです。だから、この仕事で独立しようと。独立のタイミングは、結婚とかいろんな節目がありましたけど、ある意味ずっと前から決めていたことでした」

 

——次回は、ついに個人事業主から「株式会社アクセス」を立ち上げた後の、数々の苦難や壁を乗り越えるストーリーをお聞きします。津曲さん、本日はありがとうございました。

(2本目へ続く)

 

この記事を書いた人

若林太司

若林太司

ツムログ編集長。2005年に新卒でアクセスに入社以来、人材業界一筋21年目で800社以上の採用を支援。特に中小企業の中途採用領域を得意としています。社長との対話から、目の前の課題だけでなく「隠れた真のニーズ」を発掘することに情熱を注いでおり、インタビューを通してリアルをお届けします!

営業/ツムログ編集長

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