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鈴木 敦史 氏
株式会社鈴木産業
代表取締役社長
(すずき・あつし)/20代半ばでアメリカ大陸を巡る過酷なバックパッカー生活を経験後、大手建材商社に入社。平成5年に実家の鈴木産業へ戻る。バブル崩壊後の仕事がゼロの状況から、自らの足で新規開拓に奔走。プレイヤーとして限界まで働く中、若手社員の退職を機に「人を信じて任せる」経営者へと転身。現在はゼネコンを支える独自のサブコン事業等を展開し、「売上の膨張」ではなく「絶対に潰れない強い会社と社員の幸せ」を追求している。
愛知県で内装工事や建築全般の施工管理を広く手がける株式会社鈴木産業は、いま単なる内装業の枠を超え、次世代エネルギーとして注目される「ペロブスカイト太陽電池」の活用や、建物の省エネ化を図るZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)事業など、国策にも絡むような最先端の取り組みへと事業の枝葉を広げています。
しかし、こうした未来を見据えたスケールの大きな挑戦の裏には、代表取締役である鈴木社長の、泥臭く、時に痛みを伴うような「失敗と挫折」の原体験がありました。
かつてプレイングマネージャーとして現場を一人で抱え込み、若手社員の心が離れてしまったあの日から、どのようにどん底を這い上がり、現在では「社員をしっかり休ませる改革」に本気で取り組むまでに至ったのか。そのリアルな経緯について、人間臭さと体温に溢れる鈴木社長ご本人の言葉でたっぷりと語っていただきました。
レールから外れたアメリカでのサバイバル。無駄に思える経験が血肉になる
ーー鈴木社長は若い頃、アメリカを一人で旅されていた時期があったとお聞きしました。当時のエピソードから伺ってもよろしいでしょうか。
鈴木社長
私が24歳くらいの頃、西から入っていろいろ行って東に真ん中通って南行って、また北に戻ってニューヨークに行って……という、本当にバックパッカーみたいな生活をしていた時期がありました。向こうで『グレイハウンド』っていう国鉄バスみたいな長距離バスに乗るんですけど、車の中での移動時間が丸一日とか当たり前だから、それで宿泊費を稼ぎながら移動するんです。とにかくお金がない若者でしたからね(笑)
あとは1泊2ドルで泊まれる高校の体育館の避難所みたいなところがあって、入り口に受付のおばちゃんが座っていて『2ドルね。夜になったら電気消すよ』と案内されるんです。男も女も関係なく、機械体操のマットがバーッと敷いてあるところでみんなで寝るんですよ。隣で寝ていた東海岸から来た小説家志望のバックパッカーと、お互いカタコトの英語で『どうやってここ来たの?』なんて話したりして。カバンを置いて寝るんですけど、盗まれるような良いものなんて何も持っていない、みすぼらしい格好でしたからね。
ーーすごくサバイバルな経験ですね。知らない土地で危ない目に遭うようなことはなかったのでしょうか?
鈴木社長
セントルイスに着いた時なんかは、一応安宿の情報を仕入れて荷物を置いて、バスに乗って街中を散策していたんです。そしたら映画館みたいなコンサートホールがあって、僕が当時すごく見たかったバンドの名前が出ていて。すぐバスを降りてチケットを買って、大興奮で観ていたら、終わったのが夜中の3時くらいになっちゃって。受付の人に『ダウンタウンの宿まで帰りたい』って言ったら、『ここから真っ直ぐ行きながらタクシー拾え』って言われたんですけど、全然来なくて。真っ暗な住宅街を歩いていたら、向こうから怪しい人が歩いてきて、お互い怖いから『うわーっ!』て逃げ走ったら、パトカーに見つかって呼び止められて。『怖いから宿まで送ってください』と頼みましたが、パトカーには乗せてくれませんでした(笑)。今となっては笑い話ですけど、あの頃はただただ音楽が好きで、お金はなくてもやりたいことをやっていました。でも、そういう学生時代からの寄り道というか、レールから外れた経験が、後になって絶対に役立っているんですよ。外の世界での経験があったからこそ、ただの『おぼっちゃん』にならずに済んだんだと思います。
若手社員からの「僕ら仕事ないんですよ」全てを自分で抱え込んだプレイングマネージャーの挫折
ーーその後、サラリーマンを経てご実家の鈴木産業に戻られた際、会社はどのような状況だったのでしょうか。
鈴木社長
バブルが弾けた頃で、会社には全く仕事がない時期でした。僕が実家に帰ったばかりの時の歓迎会で、いきなり職人の親方6人に囲まれて『仕事ないけど、どうしてくれるんだ!』って詰め寄られて。まだ入って1週間くらいだし、『いや俺のせいじゃ…』と思いましたけど、『なんとかします!』って言うしかなかったんです(笑)そこから親父の机にあった名刺の束を全部もらって、名古屋市から愛知県、三重県、岐阜県とずっと車でローラー作戦をかけて回りました。藁にもすがる思いでやって、ようやく1個仕事が引っかかって。最初は図面の見方も見積もりの出し方もよく分からなかったけれど、もうやるしかねえなって必死で食らいついていきましたね。
ーーご自身でどんどん仕事を取ってこられるようになったのですね。そこから順調に会社は回っていったのでしょうか。
鈴木社長
それが、大きな失敗をしてしまったんです。仕事が取れるようになってから私はめちゃくちゃ忙しくなって、夜中まで四日市とかの現場を掛け持ちでやって、夜11時頃に帰ってきて事務所の整理をして、倉庫で積み込みをやって、翌朝5時にはまた現場に出るっていう生活を1ヶ月、2ヶ月と続けていたんです。そしたらある日、若い社員の子たちが『辞めます』って言いに来て。『なんで?』って聞いたら、『主任(当時の社長の役職)は忙しそうに走り回って大変だなと思いますけど、僕らには仕事がないんですよ』って言われたんです。『いや、俺の背中見てるだろ? あんたたちも自分で仕事見つけてやってくれよ』って思ったんですけど、よくよく話を聞いたら、彼らは私が全部一人で抱え込んでいるからノーマークだったわけです。愕然としました。周りが全然見えていなかった。その時に気づいたんです。自分がプレイヤーのままじゃダメなんだって。精神的苦痛と肉体的苦痛の2つがあるとしたら、人に仕事を任せるのって『精神的苦痛』なんですよ。自分でやっちゃえば『肉体的苦痛』は増えるけど、失敗してもてめえのせいだから精神的には楽なんです。でも、経営者はばあちゃんの知恵袋じゃないけれど、その『精神的苦痛』の方を取るべきなんです。相手を信じて任せて、じっと心配しながら待つ。それができないと人は育たないし、同じ思いでやってくれる人が増えなければ会社は大きくならないと、痛感しました。
「休みを取れない現場ならやらない」。どん底から這い上がって見つけた、休ませるための戦い
ーーその時のプレイングマネージャーとしての挫折が、今の会社の体制や組織づくりにどう繋がっているのでしょうか。
鈴木社長
まず、『休みはちゃんと取れる』というのが今の会社のマストになっています。昔の俺みたいに、休みなんていらねえやって頭で働いていたら、結局みんな潰れちゃいますからね。現場が終わったら『有給ちゃんとガーンと取れよ!休め!』って口を酸っぱくして言っています。細切れで3日ずつ休んでもいいし、まとめて12日間取る人もいる。トータルで1年間でしっかり有給を消化して!と言っています。ベトナムからの実習生なんかは、旧正月になるとガンガン休んで国に帰りますからね(笑)
ーー建設や内装の業界だと、休日や夜間の工事が多くて休みが取りづらいイメージがあります。どうやってその体制を実現しているんですか?
鈴木社長
確かに、ゼネコンさんから『ゴールデンウィーク中に』とか『正月やお盆に』『昼間は営業してるから夜やって』と言われる仕事もあります。だから他社さんは監督を配置できなくて困っている。でもうちは、もしその要望に応えるなら、現場の数を絞ってでも交代制にして、ちゃんと社員が休めるように調整します。そして、『お宅の利益を守るようにやるけど、うちもちゃんと利益をいただきますよ』としっかり交渉する。それでよろしければやりますよ、というスタンスなんです。何でもかんでも丸投げで受けて、利益も出なくて社員も休めないんじゃ意味がない。権限は現場のリーダーに与えられますが、最後の責任は私が取る。そういう環境で、のびのびとトライしてほしいと思っています。だからこそ、今は昔と違ってめちゃくちゃクリーンな会社になりましたよ。私が若い頃のように、全てを犠牲にして働くやり方はもう今の時代とは違うんです。
成長と膨張は違う。AIにはない「人間の体温」と、絶対に潰さない会社づくり
ーーこれから会社をどうしていきたいか、今後のビジョンや、どんな方と一緒に働きたいかについて教えてください。
鈴木社長
売上の規模を100億円にするぞ、みたいに急激に拡大しようとは思っていません。最近よく考えるのは、『成長』と『膨張』は違うということです。無理に風呂敷を広げて夜逃げ同然になってしまった他社も見てきましたし、それが自分たちのやりたいことかというと違います。私のバックボーンには、祖父や父の代で会社が潰れるのを見てきたからこその『絶対に潰さない会社にする』という強い思いがあるんです。社員を路頭に迷わせない。社員という一つの家族と、その背後にある家族を幸せにする覚悟を持って経営する。それが大前提です。その上で、これから2030年に向けて新築のゼロエネルギー化(ZEB)が義務化されていく中で、うちはペロブスカイト太陽電池などの新しい環境技術にも内装工事と絡めて挑戦していきます。社会の役に立ちながら、着実に基盤の強い会社を作っていく。利益というのは、社会から『この会社は存在してもいいよ』と言ってもらえるための投票みたいなものですからね。
ーー最後に、これからの働き方やキャリアに悩む読者に向けてメッセージをお願いします。
鈴木社長
いくらAIが発達して、綺麗な文章や企画書を作ることはできても、そこに『心』は入っていないですよね。本当に大事なのは、『あなたはどう思うの?』『どう解決していくの?』という人間臭い部分です。色々な問題が起きた時に、自分の頭で考えて、自分の言葉で語れる人と一緒に、壁を乗り越えていきたい。うちの会社は、最初から完璧な人を求めているわけじゃありません。何か問題があっても、それをどうやって一緒に解決していくか。良いところを引き出して育てていくのが私たちの仕事です。だからこそ、AIにはない『体温』を持った人間臭い人と、一緒に仕事ができたら嬉しいですね。

「自分でやった方が早い」と現場を抱え込み、若手が離れてしまった過去の挫折。鈴木社長の口から語られる失敗談は、どれも生々しく、人間臭いものでした。「肉体的な苦労より、任せて待つ精神的苦痛を選ぶのが上に立つ人間だ」という言葉には、これまでの葛藤が詰まっています。スマートに働くのもいいけれど、こんな風に不器用に、でも本気で社員の幸せと向き合っている大人が愛知にもいる。そんなリアルな体温が伝われば嬉しいです。
この記事を書いた人
河本さゆり
中途入社6年目。前職の保険営業で培った寄り添う姿勢を大切にしています。社長との対話から企業に眠る「まだ知られていない魅力」を丁寧にすくい上げ、求人票には載っていない「リアルな社風」や「トップの熱意」をどんどん引き出します。仕事探しに役立つ記事をお届けし、皆さんの最高の出会いを全力で応援します!
営業
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