目次
三輪 政樹 氏
江川電気工事株式会社
代表取締役社長
(みわ・まさき)/大学卒業後、大手重工業企業(IHI)へ入社し、福島の工場で目に見えるものづくりの原点を学ぶ。2009年、27歳で家業である江川電気工事株式会社へ未経験で入社。2016年に代表就任後、売上を2億から11億へと成長させる。「仕事だけでなく趣味や人生を共有できる会社」を掲げ、屋上BBQや社員旅行など温かい組織づくりを牽引している。
今回は、大手重工業企業から12人の電気工事の会社へ飛び込み、数々の葛藤を乗り越えて売上を11億にまで成長させた三輪社長にお話を伺いました。綺麗に飾られた成功談ではない、現場のリアルと、仕事の本質がここにはあります。
大手から12人の家業へ。27歳、僕も「何者でもない自分」に焦っていた
――三輪社長は、もともと最初から家業を継ぐつもりで電気の道を歩まれていたわけではないんですよね。大学を卒業されてからは、福島の方で全く別の業界にいらっしゃったとお聞きしました。
三輪社長(以下、三輪): そうですね、大学は仙台の方へ行っていて、就職した先がたまたま福島の工場だったんです。大学の学部自体は電気系だったんですけど、電気って半導体とか目に見えない小さいものが多いじゃないですか。そういう仕事をやるのはちょっと嫌だなと思っていて、やっぱり目に見えるものの仕事をしたいなということで、重工業メーカーに入社しました。
そこでの仕事は、やってる内容としてはすごく責任感もあるし、職人っぽくて目に見えるし、自分としては「いい感じの仕事だな」と思って気に入っていたんです。何より、そこにいた人たちが本当に明るくて、何かあればすごく団結するような組織で、それが本当にいいなと思っていました。今振り返ると「自分でもこういう組織を作りたいな」っていう思いの原点は、あの福島時代にありますね。
――そこから、どのようなきっかけで名古屋の江川電気工事に戻ってこられることになったんですか?
三輪: その福島でお世話になっていた会社で3年目を迎えたくらいのときに、当時2代目社長だった方がちょっと体調を崩して、「そろそろ辞めようか」という話になったんです。その方から「今、会社を辞めて帰ってくるんだったら色々と仕事を教えられるけど、もうちょっと後になったら自分も教えられないからどうする?」という相談を受けまして。
自分としては、戻ってくるイコールいつかは会社を継ぐんだろうなという覚悟はどこかにあったので、少し考えて「じゃあ帰ってこようか」と決断して、リーマンショックの翌年である2009年の1月に名古屋に戻ってきました。
――当時は、お母様が3代目の社長をされていて、社員数が12名ほどの会社だったそうですね。大手の環境からガラリと変わって、戸惑いなどはなかったでしょうか。
三輪: 入社した当時は僕が27歳で、メンバーの構成自体は知っていたんですけど、いざ中に入ってしっかり見てみたら、なんと60歳以上が半数という状態だったんです。みんな僕が子供の頃から知っているような人たちばかりで、全くの未経験の状態で入ったので、まずは現場の仕事を覚えながら、1個ずつ資格を取っていくところから始めました。
ただ、やっぱり人間関係は本当に苦労しましたね。どうやったって周りからは「社長の息子」として見られてしまうので、そこにどうしても見えない壁がありましたし、僕より年下の先輩社員からしても、やっぱり扱いづらくて付き合いづらかったと思うんです。
それに加えて、僕が前にいた会社って、仕事の進め方や取り組み方が結構激しめな会社だったんですよ。それが自分の中での「当たり前」として育っちゃっていたものだから、会社のメンバーが何か間違えたり、ちょっとやる気のない姿を見せたりすると、「なんでそんなことやってるんだよ」って、若い尖ったエネルギーのまま結構強く言っちゃっていたんです。今思うと、あの頃の自分の接し方は本当に良くなかったなと思いますし、お互いの距離感が掴めなくて、あの入社初期の時期が一番精神的に辛かったですね。
10年ぶりに巡り合った体育館。僕たちの仕事は、この街の記憶として残り続ける
――職人さんたちとの人間関係に悩みながらも、そこからどうやって壁を乗り越えて、社内に馴染んでいかれたのでしょうか。
三輪: 抜け出すためにまず必要だったのは、やっぱり最低限、電気工事の知識や技術を自分でちゃんと身につけるというベースの部分でした。現場で泥臭く泥をすすりながら、必死に仕事を覚えていく中で、少しずつお互いの関係性ができていったのかなと思います。
あとは、同業の組合や、地元の法人会といった異業種の経営者の団体に、入社3年目くらいの早い段階から参加させてもらったことも大きかったです。色々な経営者の方たちの考え方に触れる中で、自分自身の独りよがりだった物事の見方がちょっとずつ変わっていって、それに連ねるようにして、社内のメンバーとの関係性もだんだんと良くなっていきました。
――現場で実際に手を動かす中で、電気工事という「ものづくり」に対する面白さややりがいは、どこで感じるようになりましたか。
三輪: 大学で勉強したことと、いざ現場で実際にやることって、ほとんどリンクしていないんですよ(笑)。ただ、形あるものを作っていくという点では、すごく自分の性に合っているなと感じました。この業界に入って初めて「えっ、こんなところでも電気って使われてるの?」と驚くような、意外な場所での仕事がポッと出てくることもあって、そういう発見も含めて面白い仕事だなと思っています。
特に思い出に残っているのは、自分が初めて現場の「職長」というか、リーダーみたいになって任されて、最後までカチッと収めた本郷町にある中学校の体育館の現場ですね。色々と大変なことはありましたけど、何とか頑張って形にして、無事に完成させたときは本当に嬉しかったですし、ものづくりのやりがいを強く実感した最初の経験でした。
――自分が関わった建物が、その後もずっと街に残り続けるというのは、この仕事ならではの素晴らしい部分ですよね。
三輪: そうなんですよ。実はその中学校の体育館の現場には、それから10年くらい経ったコロナに入る直前くらいの年に、別の工事でまたお邪魔することになったんです。10年ぶりに自分が作った場所に戻ってきて、そこでまた半年くらい仕事をさせてもらうことになったときは、「ああ、こういう巡り合わせって本当にあるんだな」と思って、何だかすごく懐かしい気持ちになりましたし、自分の仕事がちゃんと街に残って、誰かの生活を支え続けているんだなというのを振り返ることができて、すごくいいなと思いました。
うちの会社は、民間の工場のお客さんとも、創業当時から70年近くずっと定期的にお取引をいただいているんです。まだ自動車があんまり普及していなかった昔は、西区から名古屋港の方まで自転車に重たい道具を積んで通っていたなんていう話を、おばあちゃんから聞いたこともあります。それだけ長い間、名古屋の街で信頼を積み重ねて、人と街に明かりを灯し続けてきたという職人たちの誇りは、何事にも代えがたいものがありますね。
目指すのは「売上20億」と、それ以上に「明日、会社に行くのが楽しみな場所」
――三輪社長が2016年に代表に就任されてから、売上は2億円から11億円へと、従業員数も24名へと大きく成長を遂げています。これだけの実績を残されて、今後はどのような未来を描いていますか。
三輪: 僕が入社した当時はだいたい2億くらいで推移していた売上が、今は11億まで跳ね上がって、従業員も増えました。自分が社長としてちゃんと頑張ったなと胸を張れるひとつの指標として、やっぱり100周年のタイミングまでには「売上20億」にいける企業になりたいな、という目標を目指しています。
ただ、それは決してただの数字を追いかけたいわけではなくて、それだけの規模になれば、社員のみんなの未来や生活をよりしっかりと守っていけるようになるからなんです。
――売上という数字の先にある、「どんな会社にしていきたいか」という組織づくりの部分について、社長の想いをお聞かせください。
三輪: 今、僕が一番思っているのは、社員にとって会社という場所が、単に生活のために仕事をやる場所であるのは当然だとして、それだけではなくて「趣味や人生も一緒に共有できる場所」でありたいなということなんです。
実は、明日からみんなで社員旅行に行く予定なんですけど、そこで有志のメンバーとバイクに乗ってツーリングをしたり、今度ゴルフに行こうぜって誘い合ったり、冬になれば社員同士でスノーボードに出かけたりするような、そういう繋がりが社内で自然とできてきているんです。
――入社当初のギスギスしていた人間関係から考えると、今の社内の雰囲気は本当に温かくて、楽しそうな雰囲気が伝わってきます。
三輪: 旅行の制度自体は、僕が会社に入って比較的早い段階の、5〜6年経った頃から「絶対に毎年やろう」と決めて、利益が出ている年もそうじゃない年も極力続けてきました。やっぱり、みんなで「あの時あそこに行ったよね」って後から振り返って思い出せること自体が、人生においてすごく大事な資産になると思うんですよね。
コロナ禍のときも、外にお酒を飲みに行けないからっていう理由で、会社の屋上にバーベキューができるスペースを自分たちで作ったんです。今ではシーズンになると、社員の方から「社長、そろそろバーベキューやりません?」って声をかけてもらえるようになって、そういうラフで気取らない関係性になれているのは、本当に嬉しいなと感じています。
――ちなみに、旅行先はいつもどうやって決めているんですか?社長の独断で東北を提案されているとか……。
三輪: そうそう、僕は福島や仙台が本当に大好きだから、毎回自分の独断で「東北に行きたいな」と思って、選択肢の中にこっそり仙台をスルッと混ぜて多数決に出すんですよ。でも、九州とか大阪とか北海道が並ぶと、まあ見事にみんな北海道を選んじゃって、仙台には全然人が集まらない(笑)。「やっぱり仙台はイメージがちょっと弱いか……」って、毎回多数決で却下されるお茶目な攻防をやってます。でも、今回の北海道もバス飯班とツーリング飯班の2班に分かれて、それぞれが好きなルートで美味しいものを食べる計画をしていて、そういう自由で楽しい空気感をみんなで共有できているのが何よりですね。
――次の世代へ会社を引き継いでいくという部分について、社長の想いをお聞かせください。
三輪:将来、うちの会社が100周年を迎える頃には、僕はだいたい73歳くらいになっているんです。そのタイミングでは、誰か別の方にバトンを渡して次の社長になってもらいたいなと思っています。それが僕の子供になるのか、今いる社員の誰かになるのかはまだ分からないですし、無理に強要するつもりもありません。
ただ、その時代が来たときに、「この会社、すごく魅力的だから継いでもいいかな」「ここでずっと働きたいな」と心から思ってもらえるような会社であり続けるために、今は土台をしっかりと作って、みんなで毎日を全力で楽しんでいきたいなと思っています。

三輪社長が17年という歳月をかけて築き上げてきた、売上11億という実績や、社員同士が趣味を語り合う組織の体温。それは決して、最初から約束されていた華やかなストーリーではありませんでした。
27歳で未経験の業界に飛び込み、「社長の息子」という色眼鏡で見られ、年の離れた職人たちとの距離感に激しく悩み、自分の空回りに焦りを感じていた日々の積み重ね。その苦しい時期を支えたのは、「自分でちゃんと技術を身につける」という目の前の仕事への誠実な覚悟と、「形に残るものづくり」がもたらしてくれる、街や人との確かな手触りでした。
この記事を書いた人
河本さゆり
中途入社6年目。前職の保険営業で培った寄り添う姿勢を大切にしています。社長との対話から企業に眠る「まだ知られていない魅力」を丁寧にすくい上げ、求人票には載っていない「リアルな社風」や「トップの熱意」をどんどん引き出します。仕事探しに役立つ記事をお届けし、皆さんの最高の出会いを全力で応援します!
営業
このライターの記事をもっと見る →他の記事を読む
「1回や2回の失敗で、人生やり直しが効かないなんておかしい」――8億円の負債から現場で挑み続ける社長の「しあわせづくり」
電気工事事業を手がけるカシワギ電気株式会社の代表取締役・柏社長は、40歳前後で会社を引き継いだ直後、8億円規模の巨額な負債と連帯保証人の重責という壮絶な試練に直面しながらも、現場主義と「しあわせづくり」という温かい理念で […]
だし一筋の老舗がコロナ禍に「社長不在」の危機。危機を乗り越え、次の100年へ。
「だし一筋」で戦後から70有余年、名古屋のうどん文化を裏から支え続けてきた株式会社丸鉦(まるしょう)。現在、3代目社長を務める後藤さんは、決して「敷かれたレール」を歩んできたわけではありません。むしろ、強い […]
「何に繋がるか分からない仕事」のすべてが、いつか自分の武器になる。失敗を恐れず、小さくても一歩を踏み出す勇気を
アメリカ留学を経て大手食品専門商社の香港支社の営業職から、30歳を機に「畑違い」の家業へ戻り、どうやって会社の危機を救うことになったのか。「人生の点と点が繋がる瞬間」や「失敗を恐れない圧倒的な器の広さ」につ […]