目次
馬渕 雅宣氏
株式会社ハイパーブレイン
代表取締役会長
まぶち・まさのり /大学時代に東京で学習塾を創業。帰郷後の塾経営で効率化のために教育ICTに着目し、1999年に同社の前身となる事業を立ち上げる。学校へのICT支援員派遣モデルを確立する一方で、過去に投資の失敗や震災による会社の倒産など壮絶な挫折を経験。「困難から逃げれば、形を変えて再びやってくる」という信念で数々の試練を乗り越えてきた。70歳を機に、社長の座を創業時から共に歩んだ野村広之氏に譲り、現在は「生涯青春」を掲げて社会貢献に尽力している。
今回お話を伺ったのは、学校教育におけるICT支援を根底から支える株式会社ハイパーブレインの馬渕雅宣会長と野村広之社長です。現在でこそ100名近い従業員を抱える同社ですが、過去には多額の負債や倒産危機など、決して平坦なサクセスストーリーではありませんでした。
絶望のどん底を「逃げたら、また形を変えてやってくる」という信念で乗り越えてきた馬渕会長と、創業年度の入社からその背中を追い続け、企業の次なる舵取りを任された野村社長。人間臭く泥臭く、それでも「生涯青春」を掲げて前を向く大人たちの、体温が真っ直ぐに伝わるリアルな言葉をお届けします。
原点は「子どもたちの輝く目」──塾経営から始まった教育ICTへの挑戦
ーー教育現場へのICT導入支援などを手がけられているハイパーブレインですが、馬渕会長が教育の世界に足を踏み入れた一番最初のきっかけは、どのようなものだったのでしょうか。
馬渕会長 もともと大学卒業後は弁護士など別の道を考えていたんですが、親からの仕送りがなかったので自分で生活費を稼ごうと、学生時代に東京で学習塾を始めたのが原点なんですよね。そうやって塾の手伝いみたいな感じで始めてみたら、子どもたちと接する時にワクワク感がすごくあって、日々できることが増えたり子どもたちの目が輝いていったりするのを見ていると、人を育てる感動みたいなものに魅了されて自分に向いているのかなと思うようになりました。そこから気づけば生徒数も何百人という規模になって、学生ベンチャーのような形で順調に運営していました。
ーーそこから事業が順調に広がっていったように見えますが、なぜ拠点をご自身の地元である岐阜へ移されたのですか。
馬渕会長 実は父が倒れてしまって、『俺は仕送りいらないから東京で続けさせてくれ』と言っていたんですが、そういう問題じゃなくて長男なんだから面倒も見てほしいとなってこっちへ帰ってきたんですね。それで東京の塾は仲間に任せて岐阜でまた塾をやろうと思って始めたんですが、当時の岐阜では中学受験などのニーズがまだ少なかったこともあり、最初は全然人が集まらなくて非常に苦労しましたね。なんとか少人数制をウリにして募集をかけ 、徐々に生徒が増えて20名を超えてきたあたりで、私は『1人で見るには20人は規模が大きすぎる』という大きな壁に直面しました。さらには、保護者の方からも『少人数じゃないじゃん』と言われるようになってしまったんです。
ーーそこで、どのようにその壁を乗り越えられたのでしょうか。それが今の事業にも繋がっているとお聞きしました。
馬渕会長 どうするかなと思った時に、教室をガラスのパーテーションで半分に分けて、10人には私が直接教えて、もう半分の向こう側には当時はまだ珍しかったコンピュータを10台並べてそちらで復習の問題をやらせるのと併用しようと考えたんですよ。1時間経ったら交代するという仕組みにすれば、一つの教室の人数は実質半分になりますし、できるだけ少人数を確保しながら一人ひとりの子どもと向き合う時間を守るために、コンピュータという機器を活用し始めたんです。当時のコンピュータは四角い枠に文字を入れたりマルバツの判断ができる程度でしたが、いずれコンピュータがただの機械ではなく、子どもたちにとっての文房具になっちゃうような時代が来るのかなと思ったのが、今の事業に繋がる一番最初のきっかけですね。
震災、倒産、そして予期せぬ社長就任──神様が与えた「試練」から逃げない覚悟
ーー「子どもたちと向き合う時間を創出する」ためのコンピュータ活用という原点から、事業を立ち上げられるまでには、非常に大きな挫折と困難を経験されたと伺いました。
馬渕会長 ハイパーブレインを立ち上げる前の会社で、能力開発のソフトウェアを作って日本中に売ろうということで、かなり大きな投資をして勝負に出たんです。ところが、ちょうどその矢先に阪神・淡路大震災が起きてしまって、神戸にあった取引先が大きな被害を受けてしまい、そこから会社も資金繰りの大打撃を受けて最終的に倒産してしまったんです。もう手形で出しているお金がどんどん回ってきている状態で、これはもう大変だと思って、銀行が閉まる時間まで必死に走るような、生きた心地がしない絶望的な日々でした。だからこそ、次は公共教育の分野に入り込んで、確実にお役に立てる手堅い仕事をしようと強く心に決めたんです。
ーーその後、1999年に現在の会社の礎が立ち上がりますが、最初は社長という立場ではなく副社長としてスタートされたそうですね。
馬渕会長 前の会社を自分の手でダメにしてしまったという強烈なトラウマがあったので、絶対に自分はもう社長だけはやりたくないと固く拒んでいたんですよ。だから当時の共同創業者に社長をお願いして、私は副社長として現場の営業や運営を一生懸命やるという体制でスタートしました。ところが、当時の社長が心筋梗塞と脳梗塞で突然倒れてしまって、集中治療室に何ヶ月も入る状態で、懸命にリハビリをしても言語障害が残って喋ることができなくなり、結果的に私が社長をやらざるを得ない状況に追い込まれてしまったんです。
ーーかたくなに避け続けていた「社長」という重責を、ついに引き受けることになった時のご心境はいかがでしたか。
馬渕会長 自分がやるべき役割から逃げていると、必ずまた別の形でその課題はやってくるということなんですよね。本当はあなたがやるべき使命なのに逃げていたらダメだぞっていう、神様があえて私に越えなければならないハードルを与えてきたんだなと痛感しました。困難から逃げるか、困難を乗り越える力を持つためにこの世にいるみたいなもので、乗り越えないと同じ困難が形を変えて何度もやってくるんです。そこで逃げずに果敢に立ち向かって解決策を編み出すことができれば、次に同じような波が来た時には、それはもはや問題とは感じないですからね。もちろん当時は逃げたい気持ちもありましたけど、そうやって立ち向かってきたからこそ、今はよほどの困難が来ても『これまた俺を試しに来てる波が来たな』と、どこか戯れているような感覚で受け止められるようになりました。
カリスマから組織へ──仲間へ紡ぐ「未来への羅針盤」
ーー野村社長はハイパーブレインが創業した頃に入社されたと伺っていますが、カリスマ的な存在である馬渕会長から社長のバトンを受け取った時のお気持ちはいかがでしたか。
野村社長 私自身は、どうしても自分が社長になりたいと望んでやってきたわけではないんです。ただ、ある日の役員会で、当時の社長だった馬渕から『今後はこういう体制でやっていきたい』といきなり他の役員の前で私を指名されまして。会長はいつも事前の相談なく『言わなくても分かるよな』みたいな感じで決断されることが多く、別に珍しいとも思っていませんでしたが、年齢的なことや社歴のこともあり、少し覚悟はしましたね。ただ、会社の売上がもうすぐ10億っていうのが見えてくると、今までのように1人のスターがいてそのスターが全部1から10までやってた方が効率もスピード感もあっていいんですけど、やっぱりそれだけじゃもう限界があるんです。私が一人でどうこうというよりは、周りの人たちもやっぱりそういう意識を持ってやってもらわなきゃいけなくなるので、組織全体のマインドチェンジを促していかなければならないという責任感は強く感じました。
ーー10億円規模の企業へと成長していく中で、これからのハイパーブレインをどのような組織にしていきたいとお考えですか。
野村社長 従業員数も100名規模になり、お客様からのご要望も高度になっている中で、ただ人を増やすだけではなく、一人ひとりの持っている価値を上げることは売上や社会貢献に直結します。我々の仕事は単にICT機器を売ることではなく、学校現場特有の悩みを翻訳し、先生方の業務を効率化して本来の教育に注力できる時間を生み出すことですから。価値を高めることによってお客さんの満足度も高まって、結果として私たちもしっかりと評価していただけることに繋がります。だからこそ、研修制度を必須にして社会人としての基礎やマネジメント力を養ったり、年間休日を120日以上に増やし、有給休暇の計画的な取得を推進したりと、付加価値を上げるための取り組みや働きやすさの改善を本格的に始めています。
ーー最後に、馬渕会長にとって「働く」とはどのような意味を持っているのでしょうか。
馬渕会長 私は『生涯青春』という言葉が好きで、70歳になったからといって仕事を辞めるのではなくて、何らかの形で関わり続けたいんです。これからは会社の外の看板になって、社会的な活動や地域貢献に携わり続けることで、間接的にハイパーブレインの客観的な評価を高めていきたいと思っています。会社が社会のために必要とされる存在であり続けること、そして、社員が道に迷わないようにしっかりと羅針盤を示すこと。社内的なことの運営は野村社長に全任して、より社会性のあることに携わっていくというのが、これからの私の働き方ですね。

「逃げたら、必ず形を変えてやってくる」。壮絶な実体験に裏打ちされた馬渕会長の言葉には、綺麗事ではない圧倒的な重みがありました。資金繰りに奔走した絶望の日々や、避け続けていた社長就任の葛藤。私たちが足踏みしてしまうような日常のモヤモヤに対し、力強く背中を叩かれた気がします。そして今、その背中を間近で見てきた野村社長が「一人ひとりの価値を高める」新しい組織づくりへと舵を切る。愚直に縁を紡いできたハイパーブレインの歩みには、私たちが「働く意味」を見つめ直すための確かな温もりが感じられました。
この記事を書いた人
河本さゆり
中途入社6年目。前職の保険営業で培った寄り添う姿勢を大切にしています。社長との対話から企業に眠る「まだ知られていない魅力」を丁寧にすくい上げ、求人票には載っていない「リアルな社風」や「トップの熱意」をどんどん引き出します。仕事探しに役立つ記事をお届けし、皆さんの最高の出会いを全力で応援します!
営業
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