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富田 俊樹氏
株式会社TT317
代表取締役
(とみた としき)/ 5歳でモトクロスを始め、16歳でメーカーとプロ契約。度重なる大怪我や単身アメリカでの挑戦を経て、帰国後に国内最高峰クラスで優勝を果たす。2023年に第一線を退き、現在はヤマハの開発テストライダーとして「誰もが楽しく乗れるバイク作り」に携わる傍ら、若手育成や業界発展に尽力。並行して奥様とピラティススタジオを運営するなど、常に「次なる挑戦」を模索し続けるアツい体温を持った経営者。
「センス」に溺れた天才が知った、本物の挫折と努力の仕方がわからなかった日々
ーー 5歳からモトクロスを始められ、16歳という早さでメーカーとプロ契約を結ばれたとお伺いしています。当時はどのような感覚で競技に向き合われていたのでしょうか。
富田社長(以下、富田):15、16歳の頃は、自分で言うのもなんですが、本当にモトクロスのセンスがあったんです。別に特別な努力もせずに勝てていて、周りの同世代の選手たちと比べても「俺はもう少し頑張ればいけるんじゃないか」と本気で思っていました。でも、その状態が長くは続くわけがなくて、いつの間にかずっと勝っていたライバルたちが私の上にいってしまったんです。彼らが必死に努力を重ねている間に、私は何をどう努力したらいいのかわからなくなっていました。
ーー 若くしてサポートを受け、順風満帆に見えたキャリアの裏で、壁にぶつかられておられたのですね。その後、相次ぐ大怪我にも見舞われたとお伺いしました。
富田:排気量が大きくなるにつれてスピードも上がり、怪我の規模も深刻さを増していきました。両膝、両鎖骨、内臓など、全身の至る所にメスを入れ、入院や手術の回数は18回にも及びました。一番長引いたのは内臓系の怪我ですね。成人式の2日前に肝臓が破裂してしまって、ハンドルが当たった衝撃で1回心臓が止まったらしいんです。意識が戻った時はさすがにもう怖いなと思いましたし、本当にやめようかなと思った時期もありました。でも、少し時間が経つと「なんであいつにできて俺にできないんだ」という悔しさが湧いてきてしまって。それに、よく考えたら自分はまだ本気で努力したことがないんじゃないかって気づいたんです。勝てなかったライバルたちより努力しているかと言われたら、自信を持って「している」とは言えませんでしたから、もうちょっと本気で努力してみようと思い直しました。
ーー 圧倒的なセンスだけで乗り切ってきた状態から、初めてご自身の甘さと向き合った瞬間だったのですね。
富田:最近、小学校や中学校に「夢先生」として呼ばれて行く機会があるのですが、そこでは子どもたちに「何でもやってみよう」ということと、「努力したらいつかは報われる」という話をしています。私自身は小さい頃に自分のセンスに溺れて全く努力ができなかった人間なんですけど、結局のところ努力に勝るセンスってないんだろうなって、今になって強く思っているんです。自分の中にあった才能に本気の努力が加わったら無敵なんじゃないか。自分の持てる力をすべて出し切ったらどうなるのか。そこから、私の本当の意味での挑戦が始まりました。
自分の「100%」を知るための挑戦と、見えてきた世界の壁
ーー その後、国内で実績を重ねられてから、メーカーに直談判して単身でアメリカへ渡られたとお聞きしました。大きな怪我を経験した後での海外挑戦は、どのような思いからだったのでしょうか。
富田:どうしても「自分の実力のMAXってどこなんだろう」というのを知りたかったんです。自分の力を100%出し切れたレースがあったかと言われたら、まだ出せていない自分がいて。お願いをしてアメリカのレースに挑戦させてもらえることになったんですが、向こうでシーズンが始まってすぐの時期に、今度は背骨と膝を激しく怪我してしまいました。その時は半年くらい入院することになり、背骨は体の基礎でもありますから、今度こそ本当にやめようかと思いました。でも、さっきと同じで、まだ自分の限界を知らないまま終わるのがどうしても嫌で、もう一回やろうと決めて翌シーズンには復帰したんです。
ーー 異国の地での大怪我や孤独、さらには莫大な治療費など、心が折れてもおかしくない状況だったかと思います。何がご自身を再び立ち上がらせたのでしょうか。
富田:やっぱり「自分の限界を知りたい」という純粋で強烈な気持ちがあったからだと思います。日本に帰国して無理をしてでも治療に専念し、怪我の恐怖を抱えながらも再びバイクにまたがりました。実は、その時のアメリカでの治療費が2,200万円もかかったんです。でも、なんだかんだでなんとかなるんだなって思えたし、あの時の本当にしんどかった経験があるからこそ、この先のビジネスでも「あの時に比べれば死ぬことはないだろう」って思えるんですよね。アメリカで4年間やっていく中で、最終的にTOP10くらいまでには入ることができたんですが、ふとその上のトップ層を見た時に、自分とは少し次元が違うなという明確な壁を感じました。自分の実力を100%出し切って、それでもこれ以上は超えられない壁がある。それがはっきりとわかったことで、自分の中で一つ大きな区切りがつきました。
「自分が勝つため」から「誰かが楽しむモノづくり」への転換と新しい働きがい
ーー アメリカでご自身の限界を知り、帰国されてからはどのような心境の変化があったのでしょうか。33歳で第一線を退かれていますよね。
富田:日本に帰ってきてから、かつて果たせなかった国内最高峰クラスで優勝することができたんです。日本の最高峰でちゃんとタイトルを取れた時に、ようやくやり切ったのかなという気持ちになりました。まだ次の年も取ってやろうという思いはありつつも、どこかで少し燃え尽きたような感覚があって。ちょうどそのタイミングで、現在の仕事である開発テストライダーにも興味を持ち始めていたんです。これまでは「自分がレースで勝つため」のバイクを求めていましたが、自分が思い描くバイクを作っていく過程で、一緒に携わってくれるメカニックやエンジニアの人たちがいて。そういう人たちとコミュニケーションを取りながら『いいモノづくり』をするのが、なんかすごく楽しそうだなと思うようになってきたんです。
今は世界的メーカーの開発ライダーとして、世の中に出回っている市販のバイクを作る仕事をしているんですが、みんなが楽しく乗れるとか、速く走れるとか、そういうバイク作りのゴールってどこなんだろうってずっと考えているのが本当に楽しくて。私が携わっているのは日本国内だけでなく、世界中で売られているバイクです。自分が好きでずっとやってきたモトクロスというスポーツが、今は少しお客さんの人口も減ってきて右肩下がりな部分もあるので、業界全体を盛り上げていけたらなという気持ちもあります。乗って楽しいバイクが増えれば、興味を持ってくれる人も増えるはずですし、少しずつでもそれを事業として形にしていきたいなと考えています。
引退後の時給1,000円のアルバイト面接と、「とりあえずやってみる」現在の挑戦
ーー 国内トップという華々しい実績を持ちながら、引退後には時給1,000円のアルバイトの面接に行かれたとお伺いして非常に驚きました。
富田:本当にモトクロスのセンスだけで生きてきたような人間だったので、実はアルバイトすらしたことがなかったんです。履歴書を書いたり、面接を受けたりした経験が一度もなくて。引退した1年目はあえてそういうことをやってみようと思って、時給1,000円を稼ぐ大変さってどういうものなんだろうと、自分で履歴書を書いて面接を受けて働きに行きました。もちろん長く続けるつもりはなくて、半年ほどで辞めてしまったんですけど、他にも知り合いの塗装屋
さんに行ってみたり、不動産屋さんの営業について回ってトークを聞かせてもらったり、本当にいろんな社会勉強をさせてもらいました。結局何も知らないなって痛感しましたけど、すごく面白かったですね。
ーー 現在はテストライダーのほかに、奥様とピラティススタジオの運営などもされているそうですね。常に新しいことに挑戦し続けられる原動力は何なのでしょうか。
富田:妻と一緒にスタジオを始めたのも、現役の頃に体幹トレーニングとしてすごく良いなと感じていたのがきっかけです。ありがたいことにお客さんも増えてきていて、今度は人を雇って事業を大きくしていくべきか、場所を変えるべきかと、リアルに悩んでいる最中ですね。他にも、海外製品の輸入販売を手がけたりと、本当にさまざまなことに挑戦しています。テストライダーという仕事も、体力的なことを考えると60歳までできるものではないとわかっていますから、いきなりゼロからスタートするのではなく、限界が来る前になにか新しいことを始めておきたいという気持ちがずっとあるんです。
ーー 今後のキャリアに悩む若手や、現状の仕事にモヤモヤしている読者に向けて、ご自身の経験を踏まえて伝えられることはありますか。
富田:私はよく「とりあえずやってみたらどうかな」と思うんです。合うか合わないか、好きか嫌いかも、結局はやってみないとわからないですから。私もアメリカに行く時は不安でしたが、実際に行ってみていろんな景色が見られたし、レースを辞める時は「もうこの業界から足を洗おう」とまで思っていたのに、いざ開発の仕事に飛び込んでみたらものすごく面白かった。私がこうして動けるのも、現役時代から関わってくれたスポンサーの社長さんたちのフットワークが異次元に軽くて、その人たちの影響を受けている部分が大きいです。だから、興味を持ったものにはまず挑戦してみてほしいんです。本気で努力して、100パーセントの力を出し切った先には、必ず自分なりの納得のいく答えが待っているはずですから。

「心停止」や「治療費2200万円」といった規格外の苦労話よりも心に残ったのは、国内トップの座を退いた後、時給1,000円のアルバイト面接へ足を運んだというエピソードです。「今のままでいいのかな」とモヤモヤしながらも、小さなプライドが邪魔をして身動きが取れなくなる。そんな私たちにとって、圧倒的な実績を持つ大人が「社会を知らないから」と泥臭く一歩を踏み出す姿は、痛いほどリアルに響きました。いきなり大きな挑戦をする必要はないのかもしれません。まずは小さなプライドを横に置いて、「とりあえずやってみるか」と動いてみる。明日からの仕事に向けた体温を、少しだけ上げてくれるような時間でした。
この記事を書いた人
松下遥風
社会人3年目、2026年4月入社の新人です。「企業にとって最適なご提案・ご支援がしたい!」と思い、求人広告の業界に転職しました。就活時からの「人の人生にかかわる、人の力になる仕事がしたい」を軸に、企業だけでなく求職者のためにもなる採用支援ができるよう日々精進しています!
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