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星野 敬祐 氏
日星設備株式会社
代表取締役社長
(ほしの けいすけ)/リーマンショックによる就職難を機に家業の現場を手伝い、「自分が工事した上に人の生活がある」と仕事の意義を実感。「業界のネガティブなイメージを自分の手で変える」と決意し、新卒で家業に入社。事務部門の立ち上げや業務効率化を推進し、29歳で3代目社長に就任。同業他社が避けるニッチな「水道土木」に特化する事業改革を断行し、数年で年商2倍の急成長を遂げる。
日星設備株式会社の代表取締役である星野敬祐さんは、愛知県で「水道土木」という独自の領域に特化し、就任後わずか数年で年商を2倍に急成長させた3代目社長です。しかし、最初から家業を継ぐつもりがあったわけではありません。厳格な父親からは「こんな時代に土木なんてやるな」と言われて育ち、大学進学後はリーマンショックの就職難に直面。そこで手伝った家業の現場で「自分が工事した上に人の生活がある」という手触り感に気づいたことが、すべての始まりでした。
業界のネガティブなイメージを自分の手で変えようと決意し、既存のしがらみを断ち切って事業改革を進めてきた泥臭い歩み。そして、家庭の危機を乗り越え、妻を「戦友」として巻き込んでいった人間臭いエピソードまで。仕事を通して自らの環境を作り上げてきた星野社長のリアルな言葉に迫ります。
「苦労ばかりの土木なんてやるな」家業を拒んだ少年時代と、現場で気づいた“手触り感”
ーー29歳の時に3代目社長に就任されたとのことですが、日星設備さんの創業はいつ頃になるのでしょうか。
星野:うちの創業は僕のおじいさんの代からで、だいたい80年ぐらい前になりますね。最初は鍛冶屋をやったり、いろいろな便利屋をやったり、電気屋やエアコン屋、家電屋もやっていて、もう記録にも残っていないような色々な事業が含まれていました。場所は半田市で、当時の山を切り開いてやっていたみたいです。もともとうちの親とおじいさんの家族が一度破産して解散しているんですよ。
当時、父が中学生だった頃に解散して「もうやっていけないから、お前たちだけで生きていきなさい」という風に家族別居になったんです。子どもたちだけになってしまったので、当時中学生だった父と、高校生の兄貴たちが住み込みでエアコン設置などを始めたのがきっかけみたいですね。ちょうどその頃、トヨタの工場でオートメーション化が始まり、そこに目をつけたそうです。工場の拡大と一緒に一気にお金を稼げるようになり、それを聞いたおじいさんが「俺も混ぜろ」ってやってきて。これからは水の時代だから水なら困らんだろうと言って本格的に初めたみたいですね。
ーー壮絶なルーツですね。社長のお父様もずっと会社にいらっしゃったんですか。
星野:父は三男で、二代目の社長は次男だった伯父がやっていました。父はずっとその下で職人として働いていて。ただ、二代目の伯父には子どもがいなかったので、伯父の弟の長男である僕が継ぐことになるというのは、小学校ぐらいの頃から周りの親族には言われてはいましたね。僕がたまたま成績が結構良かったので、「まともな人間でちゃんとやっていけるのはお前しかいないから、戻るんだぞ」って。
ーーでは、ご自身でもいずれは継ぐものだと意識されていたのでしょうか。
星野:いや、ここに入る気はさらさらなかったです。父親は苦労して育っているので、「こんな時代に、苦労ばかりの土木なんてやるな。お前はちゃんと勉強して大学まで行っていい企業に入りなさい」という育て方だったんです。親が「他に働き口がないからこの仕事にいるんだ」なんてことを家で言っていたので、僕も子ども心に「ここに入る人たちは仕方なく働いているんだ」と思い込んでしまっていて。だから高校は普通科に進んで、大学は中京大学の理工学部に進学しました。
ーー大学を出ていざ就職というタイミングで、ちょうどリーマンショックが起きたんですよね。
星野:僕の周りも含めて誰もどこにも就職できなくなってしまって、学校側からは「100社急いでエントリーしなさい、当たるところどこでもいいから受けなさい」と言われるような状況でした。その休みの時に、親から「家で遊んでいるくらいならちょっと来い」と言われて、うちの手伝いとして現場に出させられたんです。学生時代はずっと塾講師や家庭教師のアルバイトをしていて、肉体労働とは無縁でした。でも、自分で現場に連れて行かれて工事をしているのを見て、もう少し経ってからそこへ行くと、すでに人々の生活が始まっていて洗濯物が干してあったりするのを見たんです。その時に、「ああ、この目に見えて自分が工事した上に人が生活しているんだな」と実感して、なんだかいいかもしれないって思ったんですよね。
ーー現場の手触り感に惹かれたんですね。
星野:そうです。それまでは親の影響もあって「学歴がなくても体ひとつで稼ぐ、荒々しい仕事だ」なんて思い込んでいたけど、いざわかるようになって見てみたら、すごくやりがいがあるじゃないかと。それなら、自分が社長になるのなら、仕方なく選ばれるような会社じゃなくて、色々な境遇の人たちでも逆に幸せになれるような会社に自分がすればいいのかと思ったんです。それで、就職活動するのをきっぱりやめて、自分のところに入社することに決めました。先代の社長からは最後まで「お前なんか思いとどまって来るな」と断られましたが、無理やり新卒として入社しましたね。
現場至上主義の常識を覆す、誰もやらない「事務」からの改革
ーー入社後は現場の仕事からスタートされたのでしょうか。
星野:それが、ちょっと特別扱いもあって事務をメインで入ったんです。図面を書いて役所を回ったりして、人手が足りない時だけ現場にも行くという感じで。でも当時の会社は「現場に見えてこない事務なんて楽な仕事で、あれはエアコンの中でやる仕事だ」というイメージが強かったんです。それを僕が自分で事務部門をどんどん拡大していっちゃって、まだ事務員も誰も一人もいなかったのに僕が好きなように広げて、仕事が溢れるくらいにしてしまいました。
ーー現場ではなく、あえて事務から会社の仕組みを変えていったと。
星野:自分がこういう申請や設計をきちんとしておかないと、現場の人間がめちゃくちゃ大変になるっていうのを、自分で一人でやっていて強く感じていたんです。同業他社は現場の職人が上がって独立した人たちが多くて、やっぱり現場をやっている姿が一番かっこいい花形だと思うんで、ホームページとかにもそういう写真ばかり載せるじゃないですか。でも僕はそれが嫌だったんですよね。しっかりと事務を大事にして仕組みを作ることで、逆に会社がうまく回るようになる。それが今となってはすごく活きています。
利益率の高い「水道土木」への一点突破と、しがらみを捨てる勇気
ーー事業内容についても、星野社長の代でかなり絞り込まれたと伺いました。
星野:はい。うちは今「水道土木」と勝手に名付けてメイン事業にしています。一般にみんなが想像するような家の水回りの仕事は一切しないで、水道を引くための道路の掘削工事だけを専門にやっています。昔はいろんな地域の仕事を広くやれと言われていたんですが、家って建つのに半年ぐらいかかる中で、この水道の引き込みの仕事って1日で終わっちゃうんです。誰もその仕事を選ばないし、その1日のために準備や投資をしたくないから、みんな下請けに振るんですよ。
ーーあえて、みんながやりたがらない仕事を専門にしたのですね。
星野:一番儲かる、利益率の高い仕事なんですよ。だからこそ、うちは専門店だと言い切ってしまおうと。単発の仕事だろうが、1年間全部スケジュールを埋めればいいだけの話で、みんなが半年かけて家を建てる中の1日だからやれないと考えているだけなんです。だったら、そんな半年もかかるような割に合わない仕事はやめてしまえというのが僕の考えでした。
ーーそれを実行するのは、営業面でも社内の反発でもかなり大変だったのではないですか。
星野:最初は本当に大変でした。営業も僕が全部やりましたし、昔からのしがらみで「ここは言うこと聞かなきゃ」みたいな相手にも、若さゆえの勢いで「うちは専門店に変えるから、もう儲からない仕事はやめます」と平気で言って辞めさせてもらいました。市の入札の仕事なんかも「うち儲からないからもういいです。今日からやめます」とピシャッと断って。あとはもう1日の仕事を埋めるために必死で、最初は赤字でもいいからとにかくうちがやるって取りに行きましたね。
ーー既存の付き合いを捨てるのは相当な勇気がいりますよね。結果的にどうなりましたか。
星野:役所とかで「あそこの業者がやらないから困った」という話が出たら、全部うちを紹介してくれるようになりました。この引き込み工事だけを専門にやっている会社は、愛知県内を探しても間違いなくうちしかいません。やれる力や道具を持っている会社はいくらでもありますが、決して特殊な特許を取っているわけではなく、考え方の違いだけで独自のポジションを築けたんです。おかげで、代替わりして2、3年のうちに年商は1億5000万から2倍の3億円規模まで成長しました。今はもう頭を下げて営業に行くこともなく、遠方からも「こういう専門の会社があるよ」と勝手に紹介でお客さんがついてくれる状態になりましたね。
夜中3時まで図面を描く日々。家庭の危機を救った妻という「戦友」
ーー急成長の裏で、一番しんどかった時期はいつ頃だったのでしょうか。
星野:代替わりする前の数年間が、体力的にも精神的にも一番きつかったですね。あの頃は社員と一緒に僕も成長して、周りから意見を聞いてもらえるようになったのが嬉しくて調子に乗っちゃったんです。自分で会社を切り開きたくてしょうがなくて、まったく休まずに仕事をしていました。
ーーどのくらい働かれていたんですか。
星野:もう、他の経営陣が持っていた仕事も「僕に振ってくれた方が大きくできますよ」と社内で営業をかけて全部奪っちゃって。夜中の3時ぐらいまで仕事をして図面を描いて、寝るために家に帰って、また朝の6時ぐらいに出勤して、日中は他の社員と同じように現場で作業して。体も細かったんですけど、気合いでなんとかやっていました。でも、ちょうどその頃が一番上の子どもがまだ赤ちゃんの時で、家のことを完全にほったらかしにしてしまったんです。うちの奥さんとは高校の同級生で、看護師をしていたんです。僕が仕事ばかりしているのを見て、「家族の生活より仕事なんでしょう」と言われて、夫婦仲がものすごく悪くなってしまって。
ーー家庭の危機ですね。会社の方はどうだったんですか。
星野:一方で会社の方は、僕が仕事を奪い切ったおかげで、1年間僕が持ってきた仕事だけで回るような状態になっていました。従業員たちからも「もう上の体制を変えてくれ」と声が上がって。それで当時の経営陣たちには退いてもらう形で、半ば強制的に代替わりすることになったんです。普通の会社みたいに親が亡くなって円満に継ぐという形ではありませんでした。その目処がついた頃に、さすがに僕一人じゃ会社の事務作業が回らないと思って、奥さんに「育休明けでそのまま看護師を辞めて、こっちに来て手伝ってくれ」と頼み込んだんです。
ーー奥様を、あえて会社に巻き込んだんですか。
星野:そうですね。でも、会社に入ってもらって一緒に仕事をするようになったら、夫婦仲はめちゃくちゃ良くなりました。僕の目の前の忙しさの理由が彼女にもわかるようになったし、僕が飲みにいってしまっても、そこからちゃんと仕事を取ってきて「この間の仕事はこれだから」って事務になった妻に渡せるので、「こいつ本当に仕事を取ってくるんだな」と証明できたというか。
ーートラブルもすべて共有する「戦友」になったんですね。
星野:本当にそうです。だから大きなトラブルもなく、未だに夫婦仲はすごく良くて。ただ、いいのか悪いのかわかりませんけど、家に帰っても寝るまでずっと仕事の話ばかりしていますね。「あんまり仕事とプライベートを分けたいとか思わないの?」と聞かれることもありますが、うちは全然ないです。たまに「こんなんでいいのかな」って2人で話すこともありますけど、結局すぐに「ところでこの間の物件はさ」って仕事の話に戻っちゃうんです。同じ目標に向かって同じトラブルを一緒に乗り越えているから、一番話が合うんだと思います。

誰もやりたがらない単発の工事に目をつけ、「水道土木」という新たなジャンルを自ら定義して道を切り拓く。既存のしがらみを恐れずに「やらないこと」を明確にする強さ。そして何より印象的だったのは、奥様を「戦友」として巻き込むことで最高のパートナーシップを築き上げたエピソードでした。仕事とは、誰かが敷いたレールの上を歩くことではなく、自ら道を作り、そこに大切な人を巻き込んでいく熱狂の舞台なのかもしれません。「働くってなんだっけ」と立ち止まった時、日星設備に流れるこの温かくも力強い“体温”が、次の一歩を踏み出すヒントになるのではないでしょうか。
この記事を書いた人
宗宮彰良
ツムログ副編集長。2012年に新卒でアクセスに入社し中小企業の社長のお悩みを500社以上サポート。採用の枠を超えたお悩み解決をモットーに月間50件の商談をさせていただいています。想いが強ければ採用はうまくいく。一緒に想いをかなえましょう。
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