【愛知の仕事インタビュー】100年企業が見つめる「働く意味」——時代に翻弄され、姿を変えながら生き抜いてきた機械屋のリアル

【愛知の仕事インタビュー】100年企業が見つめる「働く意味」——時代に翻弄され、姿を変えながら生き抜いてきた機械屋のリアル

藤田 彰男氏

藤田 彰男氏

赤津機械株式会社

代表取締役社長

(ふじた あきお)/1953年生まれ。 大学卒業後、ブリヂストンで自動車用防振ゴムの技術開発に携わる。 平成元年(1989年)、35歳で妻の祖父が創業した赤津機械株式会社に入社。 平成5年(1993年)に4代目社長に就任。 バブル崩壊やリーマンショックなど激動の時代を乗り越え、コンプレッサー事業を主力とする現在の強固な経営基盤を築き上げる。 「永遠の課題は人材」と語り、社員と真摯に向き合う経営を実践している。

「100年続く企業」と聞くと、どのようなイメージを抱くでしょうか。盤石な経営基盤、洗練されたビジネスモデル、あるいは確固たる一つの伝統技術——。しかし、大正時代から続く赤津機械株式会社の藤田社長にお話を伺うと、そんな華やかなサクセスストーリーとは無縁の、泥臭くも圧倒的な説得力を持つ「企業のリアルな体温」が伝わってきました。

「このままでいいのかな」「働くってなんだっけ」。そんな漠然としたモヤモヤを抱えながら毎日を過ごしている愛知の若手社会人に向けて。バブル崩壊、リーマンショック、そして幾多の時代の荒波を乗り越え、いまなお現場の人材採用に頭を悩ませる一人の経営者の、飾らない言葉をお届けします。

 

 

大正10年創業の「何でも屋」。戦争と復興を乗り越えた機械屋のルーツ

 

――本日はよろしくお願いいたします。御社は創業から100年を超え、株式会社としての設立からも間もなく80期を迎えられるとうかがっています。もともとは、どのような始まりだったのでしょうか。

 

藤田社長(以下、藤田):創業で言うと大正10年(1921年)ですね。私の家内は結婚する前は赤津と言うんですが、その祖父で創業者の赤津甚吉が、三重県の津市で「赤津商会」という個人商店を始めたのが最初です。それはもう、今の私たちが扱っているコンプレッサーとかとは全然違うもので、本当に町工場というか、中古の機械も売るし修理もするという、いわゆる「何でもやってます」みたいな機械屋さんだったんですよ。当時は商売が軌道に乗って拠点を増やそうとしていたようで、昭和9年に名古屋の矢場町へ進出して、昭和12年には熱田の横田町に本店を動かしています。

 

――大正から昭和初期にかけて、順調に規模を拡大されていたのですね。その後、戦争の時代に入っていくかと思いますが、どのような影響があったのでしょうか。

 

藤田:昭和17年に有限会社として法人化したみたいなんですけど、そこから本格的に戦争が始まってしまって、事実上は営業が止まっているような状態ですね。当時熱田のあたりには陸軍の造兵廠、 つまり大砲などの武器工場があって、 その近辺にはうちみたいな機械屋さんや工具屋さんがいっぱいあったんです。そこにある機械などは、おそらく軍の関係で接収されたりしていたんでしょうね。戦争中の細かい話は私も聞いていないんですが、うちの2代目の社長にあたる家内の父は、学徒動員でマレーシアやシンガポールの方へ行っていて、戦後は捕虜になってなかなか帰ってこられなかったそうです。親戚が心配して進駐軍に掛け合いに行ったりして、なんとか無事に復員してきて、そのタイミングである昭和23年に株式会社にしています。

 

――戦後の焼け野原からの、まさにゼロからの再スタートだったのですね。そこからどのように事業を立て直していったのでしょうか。

 

藤田:戦後始めた商売というのは、日本を占領していた駐留軍が撤収する時に置いていった、トラックや建設機械をスクラップとして買い取ることだったんです。スクラップとは言っても、少し傷がついただけで実際には使える状態のものが多かったらしくて。それをオークションの入札で落として、うちでリペアしていろんな会社に売るというビジネスが、今の赤津機械の本当の意味でのベースになりました。当時のアメリカ軍の機械なので、カタログなんかも全部英文なんですよね。それを読み解きながら、ブルドーザーやクレーン、発電機やエアコンプレッサーなど、とにかく何でも直して売っていたようです。

 

 

35歳、畑違いのエンジニアから社長へ。「謝る」スキルが活きた営業の現場

 

――社長ご自身は平成元年、35歳の時に赤津機械にご入社されたとうかがっています。もともとは全く違う業界にいらっしゃったそうですね。

 

藤田:そうなんですよ。もともとはブリヂストンで、自動車用の防振ゴムの開発エンジニアをやっていました。2代目の義父のところには娘が3人いまして、上のお姉さんはお医者さんと結婚し、真ん中のお姉さんは銀行員と結婚して。それで三女と結婚した私に「誰かやらんかい、やらないかんね」という話が回ってきて、ご縁があって私が入社することになったんです。だから、物を作ったことはあっても、お客さんに「いくらで物を売る」という販売の経験はゼロだったんですよね。

 

――全くの畑違いの環境に飛び込むことに、戸惑いはありませんでしたか。技術職でのご経験で、現在に活きていることなどはあるのでしょうか。

 

藤田:自動車用の防振ゴムをやっていた時に「サービスエンジニア」というポジションがありまして、車のメーカーのエンジニアと技術的な打ち合わせをして、製品のスペックを詰めていくという仕事をやっていたんです。実際の設計をする人間とお客様の間をコーディネートする技術サービスですね。その時の経験で一番役に立っているのは、品質管理や品質保証におけるクレーム対応です。何か問題があった時に「こうやって報告書を書いて、こう対策しますとお客様に説明して、こうやって謝るんだぞ」という一連の流れを経験していたことは、会社に入ってからも非常に生きていましたね。

 

――藤田社長がご入社された当時は、会社としてはどのような事業がメインだったのでしょうか。現在とは主力商品も違っていたのですよね。

 

藤田:私が入った当時の小牧の工場では、採石屋さん向けの機械の中古販売や修理メンテナンスと、コンプレッサーの事業が半々くらいでしたね。建設現場でよく使われるエンジン駆動のエアコンプレッサーを扱っていたご縁から、三井精機さんのお仕事をいただくようになっていて。今は若い社員さんがいなくなっちゃったこともあって、採石機械はもうやめてしまって、三井精機さんのコンプレッサーのメンテナンス部品の卸売りや、アフターサービスの一本に切り替えています。時代によって「赤津機械さんってなんとかの会社だよね」っていうメインの顔が全然違っているんですよ。

 

 

バブル崩壊とリーマンショックのリアル。変わらないのは「現場の人材」への思い

 

――社長に就任されたのが平成5〜6年頃とのことですが、まさにバブル崩壊や、その後のリーマンショックなど、経済が大きく揺れ動いた時代かと思います。経営の最前線で、どのような影響を感じてこられましたか。

 

藤田:社長になった時はバブル崩壊のタイミングでしたが、実はうちの業界はそこまで大きな影響を受けなかったんです。メンテナンスのお仕事というのは、景気が悪くなったからといって急に半分になるようなものではないですからね。もちろん景気に左右されないわけではないですが、大幅に落ち込むということはありませんでした。ただ、リーマンショックの時はさすがに打撃があって、売り上げが3割くらい下がりましたね。採石の機械なんかも、バブルの時の公共投資でコンクリートやアスファルトの骨材の需要がすごかったピーク時に比べると、今はもう市場全体が当時の3分の1くらいになっています。ただ、地震があったり台風があったり、インフラの整備は定期的に起こるので、需要がゼロになることは絶対にない。そういう堅実な世界で生きています。

 

――30年以上経営されてきて、幾多の危機を乗り越えてこられましたが、その中で一番苦労されているのはどのような部分でしょうか。

 

藤田:30年間通して毎年ずっと苦労しているのは、間違いなく「人材」ですね。採用と育成です。私が入社して朝礼に出た時、ふと周りを見渡したら自分が一番年下だったんですよ。当時私は35歳でしたが、経理やメンテナンスに同い年くらいの人が2人いただけで、あとは全員が50代や60代。しかも、他社をリタイアしてから再就職してきたベテランの人たちばかりで。冬の朝なんかは寒くてたまらない中で、とにかく泥臭く現場でメンテナンスをやってくれるサービスの人たちに支えられていました。

 

――現場を支える技術者の採用は、昔からずっと難しかったのですね。

 

藤田:ええ、採用で「楽勝だった」なんてことは、この30年間でただの一度もないです。部品の卸売りのようなわかりやすい営業の仕事はまだしも、現場のサービスエンジニアの採用は本当にずっと厳しい。社長になって数年経った時に「新卒を採りたい」と思って、求人雑誌の4分の1ページに広告を出したり、ハローワークにお願いしたり、本当に色々なことをやってきました。会社全体の人数は当時から変わらず20人前後ですが、だからこそ、縁あってうちに入って現場で汗を流してくれている社員たちのことは、本当にありがたいと思っています。

 

 

100年続く老舗企業。そう聞くと、揺るぎない事業基盤や洗練された独自のノウハウなど、どこか完成された組織を想像してしまうかもしれません。しかし、藤田社長へのインタビューを通じて見えてきたのは、時代の波に翻弄されながら「その時々で求められる役割」へ必死に姿を変え続けてきた、非常に泥臭く人間くさいサバイバルの歴史でした。

なかでも最も印象的だったのは、「バブル崩壊やリーマンショックなどの経済危機よりも、とにかく現場で汗を流してくれる人の採用と育成にずっと苦労してきたし、楽勝だったことは一度もない」という飾らない言葉です。どれだけ歴史が長くても、扱う機械の形が変わっても、結局最後に会社を支えているのは「現場で働く人」であり、100年企業の経営者であっても常に人と向き合うことに悩み続けているという事実は、働くことの普遍的なリアルを私たちに突きつけてくれます。

この記事を書いた人

宗宮彰良

宗宮彰良

ツムログ副編集長。2012年に新卒でアクセスに入社し中小企業の社長のお悩みを500社以上サポート。採用の枠を超えたお悩み解決をモットーに月間50件の商談をさせていただいています。想いが強ければ採用はうまくいく。一緒に想いをかなえましょう。

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